10月31日 名曲100選 交響曲篇・59 交響曲ハ調
ストラヴィンスキーは、作曲人生の中で2回の作風の変化があり、大きく分けて3つの期間に分類されています。初期が原始主義(バーバリズム)音楽、中期が新古典主義、後期がセリー主義(十二音技法)です。
中期の新古典主義は1919年から20年にかけて作曲されたバレエ「プルチネルラ」から1950年代半ばまでの作品が新古典主義による作品とされています。勿論、はっきりとした区切りがあるわけではなく、新古典主義終盤には部分的に十二音技法が使われたものもあります。
その新古典主義時代の作品のひとつが交響曲ハ調です。
1940年から41年にかけてのシカゴ交響楽団創立50周年を祝うために1938年に依頼され作曲を始めましたが、この時期はストラヴィンスキーの生涯で最も波乱に満ちた時期になってしまいました。1938年には娘を結核で失い、1939年には妻と母を失ってしまいます。また当時ナチスは前衛的なストラヴィンスキーの音楽を退廃的と見なし誹謗中傷していました。そんな出来事があって、ストラヴィンスキー自身は1939年9月にハーバード大学の依頼で短期の講義を行うために渡米し、そのままアメリカに留まり、交響曲ハ調はアメリカで完成する事になりました。
曲は構成自体は古典的な第1楽章 ソナタ形式、第2楽章 緩徐楽章、第3楽章 スケルツォ、第4楽章は序奏つきのフィナーレという形式になっていますが、中身はストラヴィンスキーらしさを十分に発揮したものになっています。
第3楽章のスケルツォは目まぐるしく拍子が替わります。
第4楽章は序奏を持ちますが楽器はファゴット、トロンボーンとホルンのみとなっています。最後はコラール風に静かに終わります。