今日の音楽 6月30日 アドロ
フランク・プウルセル楽団のヒット曲「アドロ」は、多くの歌手にもカバーされてヒットしました。
実際はプウルセルのオリジナルではなくて、メキシコのマンサネーロという歌手によって作詞作曲されたものが原曲です。日本では、アルゼンチンの歌手グラシェラ・スサーナの歌によって知られるようになりました
デュトワ指揮 モントリオール・シンフォニエッタ: ストラヴィンスキー:バレエ《ミューズの神を率いるアポロ》、協奏曲《ダンバートン・オークス》、協奏的舞曲、《バーゼル協奏曲》
カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団: グリーグ:《ペール・ギュント》第1組曲&第2組曲/シベリウス:交響詩《フィンランディア》 他 (SHM-CD)
ロストロポーヴィチ(vc)小澤征爾指揮ロンドン交響楽団: ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番/プロコフィエフ:交響的協奏曲
アルゲリッチ(p)シャイー指揮ベルリン放送交響楽団: チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番/ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番 (SHM-CD)
ブルガーゴーズマン(S)ウェルザー=メスト指揮クリーヴランド管弦楽団: ワーグナー:管弦楽曲集、ヴェーゼンドンクの5つの詩
アルゲリッチ(p)アバド指揮ロンドン交響楽団: ショパン: ピアノ協奏曲第1番/リスト: ピアノ協奏曲第1番 (生産限定盤)(UHQCD)(特典:なし)
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フランク・プウルセル楽団のヒット曲「アドロ」は、多くの歌手にもカバーされてヒットしました。
実際はプウルセルのオリジナルではなくて、メキシコのマンサネーロという歌手によって作詞作曲されたものが原曲です。日本では、アルゼンチンの歌手グラシェラ・スサーナの歌によって知られるようになりました
プラウド・フットの「デルタ・クイーン」は1973年初春にヒットしました。
詳細を検索してもなかなかヒットしないのですが、日本やヨーロッパでヒットした事は間違いない曲です。同じく大ヒットしたマミー・ブルーのような曲調は日本ウケしたのでしょう。
カプリコーンの恋のフィーリングは1973年初春のヒット曲です。
カプリコーンは1969年にロンドンで結成された女性ヴォーカルをフィーチャーしたポップスバンド。日本では非常に人気が高く「ハロー・リバプール」がヒットし、1972年に第3回世界歌謡祭でグランプリを受賞したのが「恋のフィーリング」でした。これも日本で大ヒット。
4人組のコーラス・グループ レターメンは数々のカバーヒットを出していますが、日本ではジョン・レノンの「ラヴ」がオリジナルを超える大ヒットとなりました。
ブラザーズ・フォアと並ぶコーラスグループの雄で、特に日本では人気が高かったようです。アメリカでの最大のヒットはヒットチャート第7位に入った「恋に落ちた時」(When I Fall in Love)1961年と君の瞳に恋してる(Goin' out of My Head) 1967年。日本では1970年代に入ってからジョン・レノンの「ラヴ」「オー・マイ・ラヴ」や「恋のフィーリング」、アメリカではシングル化されなかった「ミスター・ロンリー」などがヒットしました。
ヤナーチェクのシンフォニエッタは1926年6月26日にターリヒの指揮でプラハで初演されました。
ヤナーチェクが「勝利を目指して戦う現代の自由人の、精神的な美や歓喜、勇気や決意といったもの」を表現する目論見で作曲した曲。シンフォニエッタ=小交響曲というタイトルではありますが、ソナタ形式やロンド形式といった交響曲の形式を使っておらず、交響曲としての性格は持っていません。
5つの部分から出来ていて、冒頭は金管楽器のみで奏されるファンファーレではじまり、それを基にした変奏曲となっています。2曲目は「城塞(シュピルベルク城)」という叙情的な曲、3曲目は「修道院(ブルノの王妃の修道院)」という弦楽器で静かに始まり舞曲へと導かれる音楽、4曲目は「街路(古城に至る道)」という祝いの曲、終曲は「市庁(ブルノ旧市庁舎)」という今までの曲のいくつかの素材を使い、最後にはファンファーレに戻って華やかに終わる、という曲になっています。
非常に大きな編成で、バンダに13本の金管楽器を必要としています。
イタリアの歌姫 ジリオラ・チンクエッティの「太陽の扉」は1974年2月に発売されヒットしました。
チンクエッティは1964年16歳の時に「夢見る想い」でサンレモ音楽祭で優勝し、さらにユーロビジョン・ソング・コンテストでもイタリアからの出場者として初優勝という輝かしいスタートを飾りました。日本でもカンツォーネ・ブームの中で人気歌手となりました。
その後もサンレモ音楽祭には10回以上の出場を果たしています。「太陽の扉」は1974年のヒット曲。イタリア音楽らしい曲です。
個人的なチンクエッティの推薦曲
①太陽の扉 Alle porte del sole 1974年
②夢見る想い Non ho l'eta (per amarti) 1964年
③恋よまわれ Gira l'a,more 1972年
④雨 La pioggia 1969年
⑤白いバラ Lady d'arbanville 1971年
イギリスのシンガー・ソングライター リンジー・ディポールのヒット曲。第2回東京音楽祭で歌唱賞を受賞した曲です。
セクシー系シンガー・ソングライターとして活躍。「シュガー・ミー」「恋のウー・アイ・ドゥ」などのヒット曲で知られています。
当時は、彼女の良さは全くわからなかったのですが・・・私はセクシー系は苦手だったので・・・今ではイイなあと思います。
1972年ブレンダ・リーが来日する際にリリースされた曲。
ブレンダ・リーは1960年代にロカビリーやカントリーで47曲をチャートにランクインさせたトップ・シンガーのひとり。「アイム・ソーリー」など数々のヒット曲で知られています。
元々はドイツ出身のロカビリー歌手津川晃が1970年に発売した曲。曲名は「五月のバラ」として尾崎紀世彦、塚田三喜夫など多くの歌手にカバーされています。
1973年に「パート・オヴ・ユニオン」をヒットさせたストローブスは、かつてリック・ウェイクマンが所属していたイギリスのロック・バンドです。イギリスのチャートでは2位になっています。
ストローブスはブルー・グラスバンドとしてスタートして1970年にはキーボード奏者リック・ウェイクマンが加入しプログレッシブなサウンドを展開しました。1972年にウェイクマンがイエスに移籍しエレキ・ギターを導入してポップス化に路線を変更し「パート・オヴ・ユニオン」をヒットさせたわけです。メンバーチェンジを繰り返しながら現在も活動中です。
ワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は1868年6月21日にハンス・フォン・ビューローの指揮でミュンヘン宮廷劇場で初演されました。
16世紀のニュルンベルクを舞台としたワーグナー唯一の喜劇的オペラ。内容については過去の記事 を参照してください。
この前奏曲はあまりに有名ですが、今回は第3幕の第5場、最後のクライマックスである歌合戦の場面への前奏曲にあたる「徒弟たちの踊り」と「マイスタージンガーの入場」の音楽を紹介します。続々と人が集まってきて、最後は主役であるマイスタージンガーが堂々と入場するという雰囲気が眼に浮かぶような音楽です。最後は有名な前奏曲と同じ音楽で歌合戦へと導きます。
48クラッシュは、イギリスで活躍したロック歌手&ベーシストのスージー・クワトロのヒット曲です。
スージー・クワトロは女性ロック・ミュージシャンの草分け的な存在。アメリカのデトロイトで生まれガールズ・バンドを組んで活動。1971年に渡英してソロ歌手としてデビューし、ハードロック路線に転向した1973年に「キャン・ザ・キャン」がイギリスでナンバーワンの大ヒットしました。アメリカでは評価はイマイチで1979年の「メロウな二人」がようやく全米4位になっています。
個人的なスージー・クワトロの推薦曲
①ワイルド・ワン The Wild One 1974年
②48クラッシュ 48 Crash 1973年
③悪魔とドライヴ Devil Gate Drive 1974年
ヨハン・シュトラウスのワルツ「ウィーンの森の物語」は1868年6月19日にウィーンの舞踏会場「新世界」で初演されました。
「美しく青きドナウ」「皇帝円舞曲」と共にシュトラウスの三大ワルツのひとつとも呼ばれるウィンナ・ワルツの代表的作品です。複雑な構成になっており「踊る事」より「鑑賞する」ことを目的とした曲。長大な序奏があり、ツィター独奏が入りますが、ツィターが無い場合はヴァイオリン2本のデュエットで演奏されます。
ワルツは第5ワルツまであり、後奏にもこの内3つのワルツとツィターの独奏が入って、短い急速なコーダで締めくくられます。
レイン・レインはベルギー出身でドイツで活躍したサイモン・バタフライのヒット曲です。
サイモン・バタフライが作詞作曲し、世界中でヒットしたのですが、競作も多く、マリー・ラフォレなどでもヒットしました。サイモン・バタフライ自身も英語版以外にフランス語版(ヴィアン・ヴィアンというタイトル)も発売しています。
静かに始まりますが、最後は激しい音楽になってそのまま終わるというドラマチックな曲。私もシングルレコードを買いました。
オズモンド一家の長女、マリー・オズモンドはオズモンズのツアーなどで歌っていましたが、ロックバンドであるオズモンズとの音楽の方向性の違いから13歳でソロ活動を決意。カントリー・ミュージックを目指す事になりました。
1973年のデビューに際して選んだのが「Paper Roses」。1960年にアニタ・ブライアントがビルボード第5位のヒットを記録した曲。わずか14歳にして全米5位、カントリー・チャートの1位になる大ヒットとなりました。とても14歳とは思えない表現力と歌唱力でした。
私が初めてラジオで洋楽のベスト10番組(文化放送のゆあ・ヒット・パレード)を聞いた時にヒットしていた曲が、メッセンジャーズの気になる女の子でした。
1962年に結成されましたが1965年に一旦解散。翌年にオリジナル・メンバーのひとりグレッグ・ジェレセックが新たにメッセンジャーズを結成しましたが、1969年にギターのピーター・バランスを残して総入れ替えしグレッグは裏方に。という事でオリジナルとは全く異なるメンバーで1971年に発売した「気になる女の子」は、アメリカでは全米62位とぱっとしなかったものの、日本ではオリコン5位の大ヒットとなりました。1972年には解散しています。
「気になる女の子」は単純なポップ・ロック音楽で、この単純さが日本で受けたのかなと思います。
小倉朗の交響曲ト調は1968年6月14日に初演されました。
小倉朗はフランス近代音楽を学んだ後、ドイツ古典音楽に傾倒し作曲した音楽のひとつがこの交響曲ト調です。その後、古典に行き詰まりを感じてバルトークに傾倒していきます。
従って、この交響曲は現代版古典派音楽のため、聴きやすい曲になっています。日本語のリズムを研究していた小倉ならではの明快なリズムと明るい曲想。
まあ、現代でこういう古典的な音楽はなかなか評価されないんですけどね。
以前、「イフ」を紹介しましたが、私のブレッドとの出会いはこの「灰色の朝」でした。
ママに捧げる詩はスコットランド出身の少年ニール・リードの歌で、日本でも1972年に大ヒットした曲です。
日本語訳詩でも発売されて、本国イギリスでは250万枚を売る大ヒットとなりました。当時11歳でしたが1974年には変声期を迎えて引退しています。母親に対する子供の気持ちを素直に歌った等身大の歌で、そこが受け入れられたのでしょう。多くのカバーが生まれ、日本では南沙織、アメリカではジミー・オズモンドなどが歌っていました。
安息の日々は、ハードロックバンド ユーライア・ヒープの1972年のヒット曲で、Billboardのチャートでは最高位39位になった曲です。
イングランド出身のユーライア・ヒープはハードロックのパイオニア的なバンドでした。1960年代後半からスパイスという名前で活動し、1970年にユーラーア・ヒープに改称し、レコード・デビュー。「ユーライア・ヒープ」ディケンズの小説「デヴィッド・コパーフィールド」の登場人物からとったものです。
ユーラーア・ヒープとの初めての出会いは、「対自核」というバリバリのハードロック曲。原題はLook at Yourself. で、多分この「対自核」というわけのわからない邦題が付いていなかったら、心に留まらなかったかもしれなかったわけですが・・・。当時は、洋楽はラジオでしか聞けないから、ラジオ番組で、「たいじかく」というタイトルを言われても、何のこっちゃ!!!で、心に残ったわけです。で、2曲目の出会いが「安息の日々」。単純なコード進行の曲ですが、はまりました。
1974年の全米でヒットした曲のピックアップは終わりましたが、日本ではアメリカでヒットした曲以外にも洋楽のヒット曲がいくつかありました。
1970年代前半、日本ではフレンチ・ポップス旋風が吹いていました。シルヴィ・バルタン、フランソワーズ・アルディ、アダモなどです。その中でも爆発的な人気を誇っていたのが、ミシェル・ポルナレフ。コンセルヴァトワールでピアノやソルフェージュを学びましたがプレスリーを聞いてロックの世界へ。1966年にノンノン人形でデビューして1970年代半ばまでヒット曲を連発しました。
個人的なミシェル・ポルナレフの推薦曲
①渚の想い出 1972年 冒頭に波の音と海鳥の鳴き声が入り、サビの部分では逆にテンポを落としてバラード風に歌います。
②忘れじのグローリア 1973年
③シェリーに口づけ 1971年
④哀しみの終わる時 1972年 同名の映画の主題歌
⑤悲しみのロマンス 1974年
⑥愛の願い 1971年
⑦ラヴ・ミー・プリーズ・ラヴ・ミー 1968年
⑧愛の伝説 1973年
⑨愛のコレクション 1972年
⑩悲しきマリー 1974年
ビーチ・ベイビー Beach Baby ファースト・クラス 1974年Billbaord年間ランキング94位 最高位4位
1960年代サウンドを意識した曲で、ビーチ・ボーイズを強く意識した曲です。ファースト・クラスはソングライターのジョン・カーターが率いるイギリスのロック・バンド。ヴォーカルはセッション・シンガーのトニー・バロウズが担当しています。
ラヴェルのバレエ「ダフニスとクロエ」は1912年6月8日にモントゥーの指揮でパリのシャトレ座で初演されました。
2世紀から3世紀にかけて古代ギリシアでロンゴスという作家によって書かれた恋愛物語である「ダフニスとクロエ」に基づくバレエ音楽で、バレエ・リュスによってパリのシャトレ座で初演されました。ラヴェルはこのバレエから2つの組曲を作っています。組曲といっても1つの連なった部分をそのまま取り出したもので、編曲等は行っていません。内容はシンフォニックな作品なため、今日ではバレエとして演奏される事より、演奏会で取り上げられる事の方が多いようです。
愛の散歩道 I'm Leaving it (All) up to You ダニー&マリー・オズモンド 1974年Billboard年間ランキング81位 最高位4位
ダニーは、オズモンド・ブラザーズの中で最も人気のあったオズモンド一家の七男。マリーは紅一点の長女。この二人がデュエットをしてヒットさせたのが「愛の散歩道」でした。翌年には「モーニング・サイド・オヴ・ザ・マウンテン」が全米第8位のヒット。二人ともソロ歌手としてもヒットを飛ばしており実力派兄妹デュオは、カーペンターズと並んで高い人気を誇っていました。
チューブラー・ベルズ Tublar Bells マイク・オールドフィールド 1974年Billboard年間ランキング79位 最高位7位
1967年に姉とフォーク・デュオを結成しデビューしましたが、アルバム1枚で解散。その後バンド活動やセッション・ミュージシャンとして活動。
1973年にヴァージン・レコードの第1弾アーティストとして「チューブラー・ベルズ」でデビュー。この曲は2400回にものぼる多重録音によって制作され、オカルト映画ブームの先鞭を切った「エクソシスト」に使用され大ヒットしました。その後は成功によって生まれた精神的重圧で療養生活を経て1978年に復活し活動を継続しています。
「エクソシスト」の内容にピッタリの曲ですが、この映画のために作ったものではありません。
アイ・ショット・ザ・シェリフ I Shot the Sheriff エリック・クラプトン 1974年Billboard年間ランキング76位 最高位1位
エリック・クラプトンはローリング・ストーン誌が選出した「最も偉大な100人のギタリスト」の第2位(1位はジミ・ヘンドリックス)となったギターの名手。1960年代からヤードバーズ、クリームといった伝説のロック・バンドで活躍し、その後アメリカへ移住してからは様々なミュージシャンとのセッションに参加。本格的なソロ活動をスタートして発表したのが「アイ・ショット・ザ・シェリフ」でした。
モーツァルトのファゴット協奏曲変ロ長調K.191(186e)は1774年6月4日に完成しました。
ザルツブルクの宮廷楽団員のために作曲されたとされる曲です。管楽器のための協奏曲は古今数多くの曲が作曲されていますが、ファゴットのための曲は非常に少なく、モーツァルトのものが最も知られた曲です。
第1楽章の冒頭は、いかにもモーツァルトの協奏曲のスタートという感じで、明るい威勢の良い音楽。第2楽章は、クラリネットやオーボエのような天国的な美しさではありませんが、甘いメロディに彩られています。
エレス・トゥ Eres Tu モセダデス 1974年Billboard年間ランキング62位 最高位9位
モセダデスはスペインのポップ・コーラス・グループ。1973年のユーロヴィジョン・コンテストで2位を受賞し大ヒットしました。オール・スペイン語の曲では初のベスト10ヒットだったようです。タイトルの意味は It's You それは君 だそうです。
安らぎの世界へ The Air That I Breathe ホリーズ 1974年Billboard全米第50位 最高位6位
ホリーズはグラハム・ナッシュらを中心に1963年にデビューしたイギリスのロックバンド。メンバーの入れ替わりは多かったものの現在まで活動は続いています。
安らぎの世界へはホリーズの全世界レベルのヒット曲。オリヴィア・ニュートン=ジョンがアルバム「そよ風の誘惑」の中でカバーしていました。
恋のウォーター・ルー Waterloo アバ 1974年Billboard年間ランキング49位 最高位6位
アバは、アグネット・フォルツコグ、ビヨルン・ウルヴァース、ベニー・アンダーソン、アンニ=フリッド・リングスタットという2組の夫婦(その後両方とも離婚)で結成されたスウェーデンのグループでディスコ・ブームに乗って1970年代半ばから世界的に1980年代初頭にかけて世界的に活躍しました。
日本ではビヨルンとベニー名義で「木枯らしの少女」がヒットしていましたが、アメリカでは1974年にこの「恋のウォーター・ルー」がユーロヴィジョン・コンテストで優勝した事でヒットしたわけです。その後1982年にグループは解消しましたが、1999年にミュージカル「マンマ・ミーア!」でアバの曲が使われて再び脚光を浴びる事になりました。2005年のユーロヴィジョン・コンテスト50周年では、「恋のウォーター・ルー」は歴代最高の歌に選ばれています。
個人的なアバの推薦曲
①チキチータ Chiquitita 1979年 Billboard最高位29位 国際児童年のユニセフ飢餓救済チャリティの参加曲
②悲しきフェルナンド Fernando 1976年 Billboard最高位13位 フリーダ(リングスタットの通称)がヴォーカルを取った曲
③落ち葉のメロディ Hasta Manana 1974年 アルバムWaterlooの中の曲。デビー・ブーンもカバーしてヒットしました
④ウィナー The Winner Takes It All 1980年 Billboard最高位8位
⑤夏の終わりの少女 I'm Just a Girl デビューアルバム Ring Ringの中の曲。日本ではまだビヨルン&ベニーとして売られた曲です
⑥スーパー・トゥルーパー Super Trouper 1980年 Billboard最高位」45位
⑦ダンシング・クイーン Dancing Queen 1976年 Billboard最高位1位 アバ最大のヒット曲。
⑧ヴーレーヴー Voulez-Vous 1979年 Billboard最高位80位
⑨テイク・ア・チャンス Take a Chance 1978年Billboard最高位3位
⑩ギミー・ギミー・ギミー Gimme! Gimme! Gimme!