今日の音楽 3月31日 フランケンシュタイン
フランケンシュタイン Frankenstein エドガー・ウィンター・グループ 1973年Billboard年間ランキング第16位 最高位1位
実兄がギタリストのジョニー・ウィンターで、彼のレコーディングに参加して、その後ソロ・デビュー。1972年にエドガー・ウィンター・グループを結成し、「フランケンシュタイン」というインソトゥルメンタルの曲としては珍しい全米第1位を獲得しました。(ロックでなければ結構ありますが)
デュトワ指揮 モントリオール・シンフォニエッタ: ストラヴィンスキー:バレエ《ミューズの神を率いるアポロ》、協奏曲《ダンバートン・オークス》、協奏的舞曲、《バーゼル協奏曲》
カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団: グリーグ:《ペール・ギュント》第1組曲&第2組曲/シベリウス:交響詩《フィンランディア》 他 (SHM-CD)
ロストロポーヴィチ(vc)小澤征爾指揮ロンドン交響楽団: ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番/プロコフィエフ:交響的協奏曲
アルゲリッチ(p)シャイー指揮ベルリン放送交響楽団: チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番/ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番 (SHM-CD)
ブルガーゴーズマン(S)ウェルザー=メスト指揮クリーヴランド管弦楽団: ワーグナー:管弦楽曲集、ヴェーゼンドンクの5つの詩
アルゲリッチ(p)アバド指揮ロンドン交響楽団: ショパン: ピアノ協奏曲第1番/リスト: ピアノ協奏曲第1番 (生産限定盤)(UHQCD)(特典:なし)
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フランケンシュタイン Frankenstein エドガー・ウィンター・グループ 1973年Billboard年間ランキング第16位 最高位1位
実兄がギタリストのジョニー・ウィンターで、彼のレコーディングに参加して、その後ソロ・デビュー。1972年にエドガー・ウィンター・グループを結成し、「フランケンシュタイン」というインソトゥルメンタルの曲としては珍しい全米第1位を獲得しました。(ロックでなければ結構ありますが)
ミー・アンド・ミセス・ジョーンズ Me And Mrs. Jones ビリー・ポール 1973年Billboard年間ランキング第15位 最高位1位
ビリー・ポールはフィラデルフィア・サウンドを代表するミュージシャンのひとり。ジャズ、R&B、ポップスを折衷したようなボーカル・スタイル。
ミー・アンド・ミセス・ジョーンズは200万枚の売上を記録し3週間連続1位となった、不倫の歌。多くの歌手によってカバーされました。
ブラザー・ルイ Brother Louie ストーリーズ 1973年Billboard年間ランキング13位 最高位第1位
ストーリーズは、1960年代に「いとしのルネ」をヒットさせたレフト・バンクのメンバー、マイケル・ブラウンが旧友のイアン・ロイドなどと結成したロック・バンドで1972年にデビューしました。「ブラザー・ルイ」は人種差別を扱ったレゲエっぽいサウンドの曲。この曲が大ヒットした直後に「自分のやりたい音楽とは違う」という事でロイドが脱退し、メンバーは再編されました。
希望の明日 Playground on My Mind クリント・ホームズ 1973年Billboard年間ランキング第12位 最高位2位
クリント・ホームズは1946年イギリス生まれのシンガー・ソングライター。ヒットした曲はこれ一発だけ。しかもこの曲は自身の曲ではありません。プロデューサーのポール・ヴァンスの息子さんとの共演による曲。何で、こんなに大ヒットしたのか、よくわかりません。
ブリテンのヴァイオリン協奏曲op.15は1940年3月27日にプローサの独奏ヴァイオリン、バルビローリ指揮ニューヨーク・フィルハーモニックの演奏で初演されました。
ブリテンがカナダで作曲した唯一のヴァイオリン協奏曲。3楽章からなる曲でティンパニの導入部で開始されます。曲は全体的には華やかな曲ではありませんが、第3楽章にパッサカリアを導入するなど形式的に特徴のある曲になっています。通常緩徐楽章となる第2楽章にスケルツォを置いて荒々しい舞曲風の楽章に仕上げ、第3楽章を静かに終わらせています。
ジョージアの灯は消えて Night the Lights Went Out in Georgia ヴィッキー・ローレンス 1973年Billboard年間チャート第11位最高位1位
この曲はヴィッキーの夫であるボビー・ラッセルの作によるもので、犯人である裁判官の策略で無実で絞首刑になった男のミステリー・ストーリーというショッキングな内容。当初シェールに歌わせようとしていたのですが、南部の人たちに嫌われるのを恐れて拒否され、妻のヴィッキーが歌ったという曰くつきの曲です。
ヴィッキーはもう1曲同じような内容の曲をヒットさせましたが、元々インパクトで売れた曲なので、長続きはしませんでした。
うつろな愛 You're So Vain カーリー・サイモン 1973年Billboard年間第9位 最高位1位
カーリー・サイモンは姉ルーシーとフォーク・デュオを結成し活動していましたが1971年にソロ・デビューをして「幸福のノクターン」のヒットによってグラミー賞の最優秀新人賞を受賞しました。
1972年に発売したシングル「うつろな愛」とアルバム「ノー・シーックレッツ」が翌年大ヒットし、1970年代前半のシンガー・ソングライターブームの中で代表的な女性歌手として活躍しています。当時は、あんまり好きな歌手では無かったのですが、今見聞きするととっても魅力的な歌手です。明るく活動的なキャラでもあり1973年に結婚した(1983年に離婚)ジェームズ・テイラーとのデュエット「愛のモッキンバード」もヒットしています。
クロコダイル・ロック Crocodile Rock エルトン・ジョン 1973年Billboard年間チャート第7位 最高位1位
エルトン・ジョンはイギリスのシンガー・ソングライタで、我々の世代では本当のスーパースターのひとりでした。1969年にソロ・デビューし、それ以降コンスタントにヒットを出し続けた歌手で、バラード、ロックン・ロール、ディスコサウンド、カントリーなど様々な分野の曲を手がけています。
エルトン・ジョンの個人的な推薦曲
①僕の歌は君の歌 Your Song 1970年 Billboard最高位第8位 初期の大ヒット曲で様々なアーティストにカバーされています。
②グッドバイ・イエロー・ブリック・ロード Goodby Yellow Brick Road 1973年 Billboard最高位2位 エルトン・ジョンの代表的なバラード曲
③ダニエル Daniel 1973年 Billboard最高位第2位 グッバイ・イエロー・ブリック・ロードと並ぶバラードの代表作。
④クロコダイル・ロック Crocodile Rock Billboard最高位第1位 ロックンロールの最高傑作
⑤アイランド・ガール Island Girl 1975年 BIllboard最高位第1位
⑥恋のデュエット Don't Go Breaking My Heart 1976年Billboard最高位第1位 キキ・ディーとのデュエット曲のひとつ
⑦僕の瞳に小さな太陽 Don't Let the Sun Go Down on Me 1974年 Billboard最高位第2位 スケールの大きな曲です
⑧ホンキー・キャット Honky Cat 1972年 Billboard最高位第8位
⑨ピンボールの魔術師 Pinball Wizard アメリカでのシングル発売なし ミュージカル「トミー」の挿入歌
⑩ベニーとジェッツ Bennie and the Jets 1974年 Billboard最高位 第1位
ホワイ・ミー Why Me クリス・クリストファソン 1973年Billboard年間チャート第6位 最高位16位
クリス・クリストファソンはカントリー&ウェスタンの歌手であり、俳優としても活躍しました。2人目の妻が、リタ・クーリッジでした。作曲の能力も高く、ジャニス・ジョプリンの代表作のひとつである「ミー・アンド・ボギー・マギー」も枯れの作品です。
数多くの映画にも出演しており、1973年の「ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯」ではビリー・ザ・キッドを演じています。また、1976年には「スター誕生」でゴールデングローブ賞の主演男優賞も受賞しました。
「ホワイ・ミー」は朴訥とした歌が魅力の曲です。
レッツ・ゲット・イット・オン Let's Get It On マーヴィン・ゲイ 1973年Billboard年間チャート第4位 (最高位1位)
吉松隆のサイバーバード協奏曲は1994年3月21日に須川展也のサキソフォン独奏、円光寺雅彦指揮読売日本交響楽団の演奏で初演されました。
サイバーバード協奏曲はアルト・サクソフォンとオーケストラのための協奏曲で、サキソフォン奏者須川展也に委嘱されたものです。サクソフォンの他にピアノとパーカッションも独奏的に使われています。サイバーバードは電脳空間にいる鳥。3つの楽章にはそれぞれ、
彩の鳥=様々な色彩の断層をすり抜けて飛ぶ
悲の鳥=悲しみの鳥のモノローグと、その横で夢を紡ぐように歌う鳥たち
風の鳥=風に乗ってひたすら一直線に飛ぶ
という標題がつけられています。
ジャズやロックなどの雑多な音楽が詰め込まれている曲です。
バルトークの弦楽四重奏曲第4番Sz.91は、1929年3月20日にヴァルトパウエル弦楽四重奏曲の演奏でブダペストで初演されました。
5つの楽章をもっていますが、第1楽章と第5楽章、第2楽章と第4楽章が速度、拍子、形式が類似していて、中央の第3楽章は三部形式で第1部と第3部がそれぞれ第1・5楽章と関係が深い動機を持つという、アーチ構造のシンメトリカルな構成になっています。
荒々しいリズムや不協和音、特殊奏法が多用されていて演奏上非常に難しい曲となっています。特殊奏法としてはグリッサンドの多用、バルトーク・ピツィカート(弦を強く引っぱって指板に打ち付ける)を始めて使用したりしています。
ティペットのオラトリオ「われらが時代の子」は1944年3月19日にワルター・ゲールの指揮によりロンドンで初演されました。
「われらが時代の子」は、イギリスの作曲家ティペットの代表作で1938年11月に、ポーランドのテロリスト グリュンシュパンがナチスの外交官を射殺した事件をもとに、ティペット自身がテキストを執筆した曲。バスの独唱と合唱とオーケストラの編成で、バッハの受難曲に似せたつくりで、全3部からなりますが、各部の終わり、2部の途中に黒人霊歌が5曲挿入されています。
高校1年の時のプログラムには、もう1曲ありました。
当時は団員も少なく、管楽器奏者も今ほど多く無かった事もあって、管楽器のローテーションを考えても前・中・メイン全部がフルオケの曲である必要が無かったので、中プロは2年生以上のみの小編成の曲をやる事が多かったようです。当然1年生の私は参加しませんでしたが、その時に演奏されたのがモーツァルトのセレナーデ第6番K.239「セレナータ・ノットゥルノ」でした。弦楽器+ティンパニという珍しい編成の曲で、当時2年生で、私の中学校の先輩、後に東京交響楽団の首席打楽器奏者になるO氏という逸材がいたための選曲だったと思われます。
高校1年の秋の演奏会のアンコール曲は、ハチャトゥリャンの「ガイーヌ」の中の「ゴパック」という曲でした。
だいたい、音楽教室のような演奏会しか行ったことがなかったので、プログラムに書いていない曲を演奏するという事も、この時はじめて知った事。ホント、こんな知識でよくオーケストラになんか入ったなぁ、という感じでした。従って、周りの1年生団員の中ではダントツの無知だったように思います。
幸い、音楽が好きだった事、ギターをやっていた事、音楽の成績が良かった事などで楽譜は読めたし記号もある程度理解できたので、演奏する上では支障は無かったのですけどネ。その時には、これから45年以上にわたって楽器を引き続けるとは想像もしていませんでした。
中学校からの友人が、クラシック音楽鑑賞のファンだったため、色々薀蓄を聴かされ、それに刺激され、持ち前の好奇心も手伝ってクラシック音楽について、少しずつ知識を蓄積しましたが、私の場合クラシック一辺倒ではなくて、ポップスも聴き続けたので、本当の意味の音楽漬けでした。
「ゴパック」は、いわゆるコサックダンスの音楽です。ウクライナの伝統舞踊のひとつでテンポが揺れ、最後には激しくテンポが速まって賑やかに終わります。ハチャトゥリャンのゴパックは可愛らしいメロディで始まり最後は無茶苦茶にテンポが速くなるので、弾くの大変でした。
ヨハン・シュトラウスⅡのポルカ・シュネル「ハンガリー万歳!」op.332は、1869年3月16日に初演されました。
1866年の普墺戦争に大敗したオーストリアがハンガリーの自治を認め、オーストリア=ハンガリー帝国が翌年に誕生しました。
1869年にハンガリーの自治2周年を祝ってヨハン・シュトラウス二世が作曲したのが「ハンガリー万歳!」です。短調で始まり、勇ましい行進曲風に発展していくポルカで、ハンガリー独立の闘士として知られる英雄ラーコーツィ・フェレンツ2世を讃える「ラーコーツィ行進曲」が引用されています。
高校の新入生は、その年の9月の文化祭での演奏会に向けて練習を開始します。しかも、アンサンブルじゃなくて一流の交響曲を楽器を始めて持ってわずか6ヵ月足らずで人前で演奏しなけりゃならない。
今だって、8ヶ月スパンでの演奏会でやっと本番に間に合う感じなのに、よくやったね。まあ、高校生の演奏ですから聴く人も大目に見てくれますけどね。ただ、今と比べれば練習量が全然違います。クラブ活動は週3回、それ以外の日も自主練習、5日間の夏合宿と、勉強以外は練習に明け暮れていました。
無理矢理っぽくコントラバスを持たされて、いきなり弓を持って弦を擦るボウイングの練習。ひたすら弦を擦る。最初はスカスカの音しか出なかったのが、何日か経つと音楽の音らしいものが出てくる。そうなると、それと並行して音階の練習。コントバスは、中学校時代から親しんでいたギターの低い方から4つの弦と同じ音程なので、ある程度はわかるのですが、それでもフレットが無くて大変。教えてもらうのも1年先輩のアマチュアですからポジションだの何だのをきちんと教えてもらわない内に、(歴史が浅いクラブでOBも少なくて、コントラバスは教えに来てくれる先輩もいませんでした)曲を引き始める。
楽譜が渡されて、初めて気がついたのが、譜面がヘ音記号・・・ピアノを習っていない私に取っては読める楽譜はト音記号とギターのTAB譜だけ。ここでも大きな壁が立ちはだかっていました。
その年の前プロはズッペの喜歌劇「軽騎兵」序曲。有名な曲で、音楽の教科書にも載っていたので、知っていました。途中にクラリネット・ソロがあって勇ましい曲調から葬送の音楽へと変わるのですが、このソロを吹いたのも同級生の1年生。練習中は緊張で年中リード・ミスでぴ~っという雑音を発生させてましたっけ。 kの曲、昨年実に45年ぶりに演奏会で演奏しました。結構難しかった。高一の時はよく弾けたなあと我ながら感心してしまいました。
ブルックナーの交響曲第6番は1901年3月14日にポーリヒの指揮でシュトゥットゥガルトで全曲初演されました。
ブルックナーの交響曲の中では目立たない存在の第6番ですが、ブルックナー自身はこの曲に自信を持っていたようです。改訂の多いブルックナーの交響曲の中で第5番と並んで改訂を施していない作品となっています。
この後作曲された第7番と第8番が偉大すぎる事も要因だとは思いますが、ブルックナーの特色のひとつである全休止が無く、全曲の流れを重視した曲だと思います。
Billboard年間ランキングを使って、ポップスに親しんだ中学時代を振り返りましたが、いよいよ高校入学。本格的な音楽活動がスタートしました。
当時東京の都立高校は学校群制度で受験に合格しても、同じ学校群の中でどこの高校に行けるかは運任せ。私の受験した学校群は2校がひとつの群になっていました。中学の先生からは都立富士高校には管弦楽部があると聞かされていて、富士に入ったら管弦楽、もう一方の高校に入ったら、アメリカンフットボールをやろうと心に決めていました。
結局富士高校に入学する事になり、初心通り、管弦楽部の新入生歓迎演奏会を見に行ったのですが、実はその時点では私はクラシック音痴。一部の小品以外は「運命」と「第九」しか知らないという状態で、演奏会が終わってから入部希望者はどの楽器に入りたいのか、と尋ねられても私ひとりだけ楽器の名前すらわからない状態。
後に東京交響楽団に入った中学校のO先輩が、ここで打楽器をやっていて(それすら知らなかったI)その先輩に見つかったのが運のツキ。だいたい管楽器はブラスバンド出身の人に取られ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロは女の子ばっかり。O先輩に「お前体が大きいからコントラバスをやれ」と言われて、いきなり弓を持たされて音を出させられ、わけのわからない内に入団 楽器はコントラバスになってしまっていました。
その年の秋の演奏会のメイン曲がベートーヴェンの交響曲第7番。私にとってはかけがえのない曲となったわけです。
愛するハーモニー I'd Like to Teach the World to Sing(In Perfect Harmony) ニュー・シーカーズ 1972年Billboard年間ランキング93位 最高位 7位
ニュー・シーカーズはジョージ・ガールのヒットで知られるシーカーズ解散後に1969年メンバーを変えて再結成されたポップ・コーラス・グループです。
何と言っても1972年に発売された「愛するハーモニー」はコカ・コーラのCMで使用されて世界中でヒット。日本でもオリコン1位を獲得しました。
1970年に発売された2枚目のシングル「What Have They Done to My Song, Ma」(邦題 傷ついた小鳥)はヴォーカルのイヴ・グラハムのパンチの効いた歌がとっても魅力で全米14位になっています。日本ではフランスのダリダの歌が知られていますが、TVジョッキーの主題曲として使われていました。
モーツァルトのピアノ協奏曲第13番ハ長調K.415(387b)は、1783年3月11日にブルグ劇場で初演されました。
第11番、第12番とともに予約演奏会のために作曲されたもので、この曲だけ編成にトランペットとティンパニを加え華やかな曲に仕上がっています。また終楽章で意表を突く短調を使っており斬新な趣向の曲になっています。
サタディ・イン・ザ・パーク Saturday in the Park シカゴ 1972年billboard年間76位 最高位3位
シカゴは、ロックにブラスを取り入れた「ブラス・ロック」の先駆者的なバンドです。1970年代後半からはメンバーの入れ替わりが激しく、音楽も次第にポップス路線へ転換されてしまいました。
「サタディ・イン・ザ・パーク」は、シカゴのヒット曲の多くを作詞作曲しているキーボード、ヴォーカル担当のロバート・ラムの作品。当時のシカゴの立ち位置である反戦的な内容を含む軽快な曲です。
シカゴの個人的な推薦曲
①素直になれなくて Hard to Say I'm Sorry 1982年 Billboard最高位1位・・シカゴ最大のヒット曲。
②愛ある別れ If You Leave Me Now 1976年 Billboard最高位1位・・バラード調のコーラスが素敵な曲です
③君とふたりで Just You 'N' Me 1973年 Billboard最高位4位
④サタディ・イン・ザ・パーク Saturday in the Park 1972年 Billboard最高位 3位
⑤愛のきずな Feelin' Stronger Every Day 1973年Billboard最高位 10位
⑥クエスチョンズ 67/68 Questions 67 and 68 1971年Billboard最高位 24位
⑦長い夜 25 or 6 or 4 1970年 Billboard最高位 4位
⑧朝もやの二人 Baby, What a Big Surprise 1977年 Billboard最高位4位
⑨ダイアログ Dialogue 1972年 Billboard最高位24位
⑩いったい現実を把握している者はいるだろうか? Does Anybody Really Know What Time It Is 1970年 Billboard最高位7位
スクールズ・アウト School's Out アリス・クーパー 1972年Billboard年間75位 最高位7位
デトロイト生まれのヴィジュアル系ロック・ミュージシャンの草分け的存在。後には俳優としても活躍しています。顔のペイントだけでなく蛇を首に巻いたりと、当時は不気味なミュージシャンでしたが、今聞いてみると、とっても歌が巧い。また本人も実際は気さくな人柄のようです。
個人的には上記スクールズ・アウト以外では知っている曲は2曲
アリスは大統領 Elected 1972年 全米第26位
ビリオン・ダラー・ベイビーズ Billion Dallar Babies 1973年 全米第57位
ジムに手を出すな You Don't Mess Around with Jim ジム・クローチ 1972年BIllboard年間68位 最高位8位
ジム・クローチについては、今まで散々取り上げて来ました。長い下積みを経て1972年29歳でようやくメジャーデビューをして、デビュー・シングル「ジムに手を出すな」がヒットして、翌年「リロイ・ブラウンは悪い奴」が全米1位になり、これからという同年の9月20日に飛行機事故で亡くなりました。新曲「アイ・ガッタ・ネーム」がリリースされる前日の事でした。
苦労人だからこその、やさしい語り口の歌がとても魅力的で、日本で知られるようになったのは死後の事でした。メジャーデビュー以降の3枚のアルバムを秋葉原で探してようやく手に入れた覚えがあります。早逝したアーチストとしてはカレン・カーペンターと並んで私にとっては忘れられないアーチストでした。
ジム・クローチの個人的な推薦曲
①アイ・ガッタ・ネーム I Got a Name 1973年 全米10位 映画「ラスト・アメリカン・ヒーロー」の主題歌で、映画のタイトル、主題歌のタイトルがジム・クローチ自身に重なります。
②タイム・イン・ア・ボトル Time in a Bottle 1973年 全米1位 ジムの死後1枚目のアルバム「ジムに手を出すな」からシングルカットされて名曲です。
③歌にたくして I'll Have to Say I Love You in a Song 1974年全米9位 愛している事をうまく言葉で言えなくて歌にたくして愛を語るというラヴ・ソングです
④ルロイ・ブラウンは悪い奴 Bad, Bad Leroy Brown 1973年全米1位 シカゴの架空のチンピラ、キング・コングの方がまだマシというルロイ・ブラウンを歌った曲
⑤オペレーター Operator 1972年 全米17位 電話交換士との会話を描いたとても優しい曲
⑥明日への足音 One Less Set of Footsteps 1973年全米37位 ナレーターと恋人の失恋を歌った曲ですが、とても前向きな曲です
⑦ラヴァーズ・クロス Lover's Cross アルバム「アイ・ガッタ・ネーム」の中の曲。
⑧写真と思い出 Photograph and Memories アルバム「ジムに手を出すな」の中の曲
⑨ネクスト・タイム・ジス・タイム Next Time This Time アルバム「ライフ&タイムズ」の中の曲
⑩そうじゃなくてもいいのに It Doesn't Have to Be That Way 1973年全米64位
母と子の絆 Mother and Child Reunion ポール・サイモン 1972年Billboard年間58位(最高位4位)
チャイコフスキーの協奏的幻想曲op.56は1885年3月6日にタネーエフのピアノ独奏、エルトマンスデルファーの指揮でモスクワで初演されました。
協奏的幻想曲は、チャイコフスキー後期の作品で、1900年代以降長年殆ど演奏される事もない作品でした。
2つの楽章からなるピアノ独奏と管弦楽のための作品ですが、はっきり言ってこの2つの楽章全く性格が異なっています。第1楽章は、チャイコフスキーらしい愛らしいスラヴの雰囲気を持つメロディによる叙情豊かな楽章ですが、第2楽章はそういった魅力には乏しい、いわゆる「らしくない」音楽です。緩徐楽章とフィナーレを担っていますが、多少息苦しい感じがします。
ツェムリンスキーの交響曲第2番変ロ長調は1899年3月5日にツェムリンスキー自身の指揮で初演されました。
ツェムリンスキーはウィーン生まれの作曲家でブラームスの後押しによって世に出るようになりました。作曲家としてはあまり知られていませんが、指揮者や教育者としての名声は高く、シェーンベルク、アルマ・マーラー、コルンゴルトなどを指導しました。作風はブラームスからの影響は限られていて、拡張された和声法を使っています。但し無調音楽や十二音技法には進んでいませんが、晩年には調性感が希薄な傾向になっています。
交響曲第2番は2管編成の曲で、古典的な様式に則って作曲されています。
バーニング・ラヴ Burning Love エルヴィス・プレスリー 1972年Billboard年間チャート第48位(最高位2位)
私個人的にはプレスリー世代ではなく、晩年のプレスリーしか知りませんが、キング・オブ・ロックンロールと呼ばれるほどアメリカでは最も成功したソロ・アーティストとされています。
1977年に42歳の若さで亡くなった事も、その評価に拍車をかけているようです。
1935年に生まれてプロ歌手として成功したのは1955年にRCAレコードと契約してからの6枚目のシングル「ハート・ブレイク・ホテル」がヒットしてから。その後はカリスマ的な歌手として、また映画スターとして大活躍したわけです。
バーニング・ラヴはプレスリー最後の全米10位以内のヒットとなった作品。
思い出のガーデン・パーティ Garden Party リッキー・ネルソン 1972年Billboard年間チャート第46位(最高位6位)
リック・ネルソンの名前も使っているカントリー系ミュージシャン兼俳優。
1961年に「トラベリン・マン」が全米1位になって、そのB面の「ハロー・メリー・ルー」も大ヒットしましたがその後ヒットに恵まれませんでしたが1971年に「思い出のガーデンパーティ」が全米6位となりました。これが最後のトップ10シングルでその後1985年に飛行機事故で亡くなりました。
雨に濡れた朝 Morning Has Broken キャット・スティーヴンス 1972年Billboard年間チャート第44位(最高位6位)
ロンドン出身のシンガー・ソングライターで1960年代後半から1977年代にかけて大活躍しました。1977年にイスラム教に改宗し音楽業界を離れましたが2006年に音楽活動を再開しています。
「雨に濡れた朝」は、映画「ハロルド・モード少年は虹を渡る」に使用されてヒットされた曲で元々は賛美歌でした。日本では賛美歌444番「世のはじめさながらに」として知られている曲です。ピアノ伴奏はリック・ウィエクマンでした。
キャット・スティーヴンスの個人的な推薦曲
①雨に濡れた朝 Morning Has Broken 1972年Billboard最高位6位
②人生はさすらい Sitting 1973年Billboard最高位16位 淡々とはじまり最後は絶叫で盛り上がります。
③悲しみのリザ Sad Lisa 日本では雨に濡れた朝のB面です
④白いバラ Lady D'arbanville 1970年 Billboardランク外 当時はヒットしませんでしたが、今は名曲として様々なポップス・オーケストラなどに取り上げられています。中でもレイモン・ルフェーヴルの演奏は有名です。
⑤ピース・トゥレイン Peace Train 1971年Billboard最高位7位・・・平和への願いを歌った力強い曲です
⑥月と星と少年 Boy with a Moon & Star on His Head 日本では人生はさすらいのB面
⑦オー・ヴェリー・ヤング Oh Vey Young 1974年Billboard最高位 10位
裏切り者のテーマ Back Stabbers オージェイズ 1972年Billboard年間チャート第35位(最高位3位)
イントロの後の"What they do"の掛け声が印象的な曲。ソウル・ミュージックのコーラスグループは山ほどありましたが、2つのタイプがあって、踊りながら歌うダンス系のグループとコーラスを聴かせるグループです。オージェイズはダンス系のグループのひとつ。オハイオ州カントンの地元ハイスクール友人5人でトライアンフスというグループ名で活動をはじめ1961年にオージェイズとなりました。ヒット曲を出すようになった70年代には3人グループとなっています。
個人的なオージェイズの推薦曲
①裏切り者のテーマ Back Stabbers 1972年Billboard最高位3位
②ラヴ・トレイン Love Train 1973年Billboard最高位1位
・・・これしか知りません(笑)