今日の音楽 11月30日 今日を生きよう ; Music for today Nov.30 Let's live for today
グラスルーツのベーシスト、ヴォーカリストだったロブ・グリルは1943年11月30日にハリウッドで生まれました。
デュトワ指揮 モントリオール・シンフォニエッタ: ストラヴィンスキー:バレエ《ミューズの神を率いるアポロ》、協奏曲《ダンバートン・オークス》、協奏的舞曲、《バーゼル協奏曲》
カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団: グリーグ:《ペール・ギュント》第1組曲&第2組曲/シベリウス:交響詩《フィンランディア》 他 (SHM-CD)
ロストロポーヴィチ(vc)小澤征爾指揮ロンドン交響楽団: ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番/プロコフィエフ:交響的協奏曲
アルゲリッチ(p)シャイー指揮ベルリン放送交響楽団: チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番/ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番 (SHM-CD)
ブルガーゴーズマン(S)ウェルザー=メスト指揮クリーヴランド管弦楽団: ワーグナー:管弦楽曲集、ヴェーゼンドンクの5つの詩
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グラスルーツのベーシスト、ヴォーカリストだったロブ・グリルは1943年11月30日にハリウッドで生まれました。
作曲家コルンゴルトは1957年11月29日にハリウッドの脳溢血で亡くなりました。
コルンゴルトは当時オーストリア=ハンガリー帝国領だったモラビア地方のブリュンの生まれで、モーツァルトの再来と呼ばれる程の神童ぶりを発揮した作曲家でした。
ユダヤ系だったコルンゴルトは、多くのその時代の作曲家と同じくナチスの迫害を避けてアメリカに亡命し、そこで映画音楽の作曲家としても成功しアルフレッド・ニューマンやジョン・ウィリアムズなどの現代の映画音楽の作曲家たちの先駆者となっています。
コルンゴルトがただ1曲作曲した交響曲は(若い頃にシンフォニエッタは作曲しています)、第二次大戦終結後、映画音楽などの商業音楽に嫌気が差してきたころの作品でヨーロッパをナチスから解放したフランクリン・ルーズベルト大統領の追憶のために作曲したものです。コルンゴルトの作風の拍子の頻繁な変化や調性感の欠如という特徴は持っていますが、叙情的で親しみ易い旋律を用いて、当時のドイツ音楽とは一線を画す作品となっています。
ヨゼフ・シュトラウスのワルツ「平和の棕櫚」op.207は1866年11月28日に初演されました。
1866年普墺戦争に大敗したオーストリアの暗い世相を振り払いたいがために作曲したもので、暗い世相を振り払おうという意図で作曲されました。
ちょっと天体の音楽に似た美しいメロディの曲です。
プロコフィエフのトッカータ ニ短調op.11は、1916年11月27日にプロコフィエフ自身のピアノ演奏でペトログラード音楽院小ホールで初演されました。
プロコフィエフがシューマンのトッカータに着想を得て作曲したピアノ小品です。ハ長調という表記がされているものが多いようですが、冒頭、終止ともにニ音で終わっており、記譜も♭1つなので、ニ短調の説を取る事にしました。確かに無調音楽に近く半音階が多いという事と、この曲の代表的な演奏者ホロヴィッツのCDの表記がハ長調だった事によって広まったようです。
プロコフィエフのピアノ曲は難曲が多いのですが、この曲も同音連打や大きな手が必要な音域など性格にリズムを刻む事が難しい曲のようです。
ルトスワフスキの管弦楽のための協奏曲は1954年11月26日にワルシャワで初演されました。
フォーレのパヴァーヌop.50は1888年11月25日にシャルル・ラムルー指揮ラムルー管弦楽団で管弦版の初演が行われました。
1886年にフォーレが2管編成(トランペットは無し)の小曲として作曲したもの。翌年にはモンテスキューの詩による合唱パートを追加しましたが、管弦楽だけで演奏される事が多いようです。
フルートに重点を置かれた甘美で崇高な曲で、その後本人がピアノ独奏にも編曲したほか、チェロやヴァイオリンなど様々な編曲が成され、ポピュラー音楽としても親しまれています。
クイーンのフレディ・マーキュリーは1991年11月24日にエイズで亡くなりました。
シンセサイザーを使わず、ギターの多重録音、ヴォーカルの多重録音などを駆使して、新しいロックの形を示したクイーンのメイン・ヴォーカリストです。
「輝ける7つの海」はファーストアルバム「戦慄の女王」にインストロメンタル・ヴァージョンが収録されており、フレディ・マーキュリーの歌入りバージョンとしてシングル発売された初期のヒット曲です。私が始めてクイーンを聞いたのがこの曲。非常に新鮮なロックで、その後のクイーンの躍進を確信しました。
シェーンベルクの「ナポレオンへの頌歌」op.41は、1944年11月23日に初演されました。
ナチスドイツから逃れてアメリカへ渡った時の作品でアメリカ作曲家連盟からの依頼によるものです。バイロンの詩「ナポレオンへの頌歌」に室内楽伴奏をつけたものです。
「ナポレオンへの頌歌」と言っても、ナポレオンを讃えるものではなく、フランス革命後のナポレオンを非難する内容で、シェーンベルクはこのナポレオンにヒトラーを重ね合わせて怒りをぶつけたものとして作ったと言われています。
ヨハン・シュトラウス二世の宝のワルツop.418は、1885年11月22日に初演されました。
オペレッタ「ジプシー男爵」の中の3拍子のメロディを集めたワルツで、曲名は「ジプシー男爵」の中で宝物を見つけたときに流れるメロディに由来しています。
ヒンデミットの変ホ調の交響曲は1941年11月21日にミトロプーロス指揮ミネアポリス交響楽団によって初演されました。
いわゆる「ヒンデミット事件」でナチスによって頽廃藝術の烙印が押されたヒンデミットは、ベルリンを追われてトルコ、スイスから1940年アメリカに移住。アメリカで作曲されたのが、この曲です。
アメリカ好みの作風の曲で、冒頭にファンファーレがあって、それが主題として第1楽章の骨格となっています。即物主義のヒンデミットですが、即物主義と言うとなんか乾いた曲を連想しますが、とてもドラマチックな曲です。
ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第9番変ホ長調op.117は、1964年11月20日にベートーヴェン四重奏団によって初演されました。
2番目の妻であるイリーナに捧げられた曲で5楽章の構成になっています。ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の一番人気は第8番と言われていますが、第9番は第8番とは全く性格が異なる激しい音楽です。
通常の第2楽章に加えて第4楽章にも緩徐楽章を持ってきていて、それで25分程度という演奏時間はなかなかお徳な曲でしょう。
歌手松崎しげるは1949年11月19日に東京都江戸川区で初演されました。
日大一高では野球をやっていたものの肩と肘をこわして断念、その後は音楽活動を始め日大藝術学部へ進んでバンド活動をしていたところ宇崎竜童にスカウトされてプロ・デビューをしました。
CMソングなどの活動をしていましたがヒット曲には恵まれませんでした。1976年にスペインのマジョルカ音楽祭で最優秀歌唱賞と第2位と健闘しましたが、日本では注目されず、翌年のグリコ・アーモンド・チョコのCMソング「愛のメモリー」が大ヒットして日本中に知られる歌手となりました。
今では日本を代表する実力派歌手のひとりとして活躍しています。
ロドリーゴのアンダルシア協奏曲は1967年11月18日にロメロスらのギター、アレッサンドロ指揮初演サン・アントニオ交響楽団の演奏で初演されました。
ブルックナーの弦楽五重奏曲は1881年11月17日にウィーンにて非公開の初演が行われました。
数少ないブルックナーの室内楽曲の中で傑作と言われている曲。ウィーンで著名だったヴァイオリニストのヘルメスベルガーの勧めによって作曲されたと言われています。
ヘルメスベルガーよりスケルツォが良くないと言われてスケルツォの替わりに間奏曲を完成させましたが、当時ブルックナーはブラームスやハンスリックに酷評されており、この論争に巻き込まれたく無かったためかヘルメスベルガーはなかなか初演を行わなかったために、ブルックナーの弟子たちによる非公開の初演をする事になったようです。
その後、スケルツォを元に戻して6年後にヘルメスベルガーの四重奏団によって初演されましたが、こういった経緯があったためか、献呈はバイエルンのマクシミリアン・エマヌエル公に捧げています。
ヨハン・シュトラウス二世のワルツ「北海の絵」op.390は1879年11月16日に初演されました。
1979年に医者の忠告によって夫婦でドイツ領のフェール島へ静養にでかけ、そこでの海の景色を描写して作曲したのが「北海の絵」です。初演は現地で行われ、その後ウィーンではエドゥアルト・シュトラウスの指揮で初演されました。3つの小さいワルツに序奏とコーダがついている曲で、日本的な北の海という感覚とは全く異なる暗さは感じられない曲です。
歌手で女優のペトラ・クラークは1932年11月15日にイギリスで生まれました。
ペトラ・クkラークは1960年代に活躍したイギリスを代表する女性歌手で、ハリウッド映画にも進出を果たしミュージカル映画「チップス先生さようなら」ではヒロインのキャサリン役を演じています。
代表曲は、「恋のダウンタウン」。疲れた時にダウンタウンに行ってみれば必ず元気をもらえ、ダウンタウンはあなたを癒してくれるはず、という内容。フランク・シナトラなど多くの歌手がカバーしています。
ヤナーチェクの序曲「嫉妬」は1906年11月14日にチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で初演されました。
マルティヌーの交響曲第1番は1942年11月13日にクーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団の演奏で初演されました。
クーセヴィツキー音楽財団の依頼によってクーセヴィツキー夫人に捧げられた曲です。
マルティヌーはチェコの生まれですがプラハ音楽院での授業に満足できずパリで作曲を学びましたが、ナチスのブラックリストに上げられた為、1941年にアメリカに渡り、そこで作曲したものです。
古典的な響きを感じさせる曲で、まだ新古典主義または新印象主義的な音楽に到達する前の作品です。
歌手岩崎宏美は1958年11月12日に江東区深川で生まれました。
小学校の頃から歌のレッスンを受けて1975年にアイドル歌手としてデビューしましたが、当時から歌の実力はピカ一と言われていました。1982年に「火曜サスペンス劇場」の主題歌「聖母たちのララバイ」が大ヒットとなり、1986年にはミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」に次女ホーデル役で出演し、その後はチェコ・フィルとの共演など実力は歌手として大活躍しています。
「やさしい妹へ」は1982年に発売された岩崎宏美が全曲作詞をしたアルバム「Love Letter」に収録されている曲。実妹の岩崎良美にあてた姉妹愛あふれる曲です。
ヨハン・シュトラウス二世のワルツ「謝肉祭の使者」op.270はウィーン楽友協会の50周年記念祭で1862年11月11日に初演されました。
シュトラウスが毎年謝肉祭の時に初演していた曲の1曲。あんまり知られていないですけど、なかなか良い曲ですよ。
フォーレのヴァイオリン・ソナタ第2番ホ短調op.108は、1917年11月10日に国民音楽協会の演奏会で、カペーのヴァイオリン、コルトーのピアノで初演されました。
ロドリーゴのセレナータ協奏曲は1956年11月9日にサバレタのハープ独奏、クレツキ指揮スペイン国立管弦楽団の演奏で初演されました。
映画俳優アラン・ドロンは1935年11月8日にパリ郊外で生まれました。
1960年代から1980年代初めにかけて、世紀の二枚目俳優として大活躍しました。1957年カンヌでスカウトされて「女が事件にからむ時」でデビュー。1960年にルネ・クレマン監督の「太陽がいっぱい」の大ヒットで世界的なスターとなりました。
その後「シシリアン」「冒険者たち」「さらば友よ」「ボルサリーノ」など多くの作品に出演しました。特に日本での人気は絶大でしたが、今年の5月に映画と舞台1本ずつこなした後引退するという発表をしています。
そのアラン・ドロンのセリフに乗せてシャンソン歌手のダリダが歌った「甘い囁き」は日本で大ヒットしました。アラン・ドロンの甘い求愛の言葉を、浮ついた嘘だと否定しながらも惹かれていく女性をダリダが歌ったものでした。
ストラヴィンスキーの交響曲ハ調は1940年11月7日にストラヴィンスキー自身の指揮、シカゴ交響楽団の演奏で初演されました。
ハ調の交響曲は、ストラヴィンスキーの第2期、新古典主義の時代の作品です。第二次大戦で娘、妻、母を相次いで失いパリを脱出してアメリカに移住した時期で、パリで作曲が開始され、完成はビバリーヒツズという曲です。
2管編成ですが、第1楽章は Moderato 第2楽章は Larghettoの緩徐楽章、第3楽章は Allegretto、終楽章はLargoから Tempo giusto alla breveという古典的な構成とは全く異なるものです。
歌手本田美奈子は2005年11月6日に骨髄性白血病の合併症で亡くなりました。
アイドルから、ミュージカル、セミクラシックと本格的な歌手へのステップを歩んで、実力派歌手として認められるようになったのは21世紀に入ってからでした。そんな本田美奈子を突然の病が襲ったのは2004年末。骨髄性白血病と診断され骨髄移植のドナーを待つ猶予も無く、臍帯血移植を受けたものの病状は恢復せずに1年足らずで亡くなってしまいました。
「アメイジング・グレース」は彼女の代名詞ですが、この「つばさ」も代表曲のひとつです。1994年に発表され岩崎宏美など多くの歌手がカバーしています。
シュニトケの交響曲第3番は1981年11月5日にマズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏で初演されました。
シンガー・ソングライターの永井龍雲は1957年11月4日福岡県で生まれました。
中学時代からフォーク愛好会を作って活動をしていましたが、大学受験に失敗してミュージシャンを目指し、1978年にデビュー。1979年の5枚目のシングル「道標(しるべ)ない旅」がグリコアーモンドチョコレートのCMソングとして使われてヒットしました。
1999年より沖縄に移住して音楽活動を続けています。
スメタナのピアノ三重奏曲ト短調は1855年11月3日にスメタナのピアノ、ケーニヒスロウのヴァイオリン、ゴルターマンのチェロでプラハで初演されました。
前年に結核で次女を亡くし、この年には長女をしょうこう熱で失ったと言う背景で、非常に陰鬱な曲になっています。3つの楽章全てが急-急-急という楽章構成になっており、各楽章の中に穏やかな部分が含まれています。「わが生涯より」を含めてスメタナの室内楽曲は重たい内容の曲が多いですね。
ラフマニノフの交響詩「ロスティスラフ公」はラフマノニフの没後1945年11月2日にモスクワで初演されました。
ラフマニノフがモスクワ音楽院在学中に作曲した最初期の管弦楽作品。音楽院の恩師アレンスキーに献呈されました。
チャイコフスキー、リムスキー=コルサコフなどの影響を受けて華麗な管弦楽法で作曲されてはいますがラフマニノフらしい暗い雰囲気も醸し出しています。ラフマニノフはこの曲を発表するつもりが無く、初演は没後になりました。
「ロスティスラフ公」はアレクセイ・コンスタンチノヴィッチ・トルストイ(有名なトルストイとは別人)の詩に基づく交響詩です。
カナダの音楽家のデイヴィッド・フォスターは1949年11月1日にカナダのビクトリアで生まれました。
1960年代からバンド活動でキャリアをスタートして1970年代半ばからはプロデューサーに転進し、バーブラ・ストライザンド、セリーヌ・ディオン、ホイットニー・ヒューストン、マイケル・ジャクソンなどのアルバム・プロデュースを行って、作曲活動も行いグラミー賞を15回も受賞しています。
その他映画音楽も手がけアカデミー賞は3回ノミネートされています。1988年にカルガリーオリンピックの公式テーマとして作られたのが「ウィンター・ゲームズ」でした。フォスターはその後アトランタ、ソルトレイク・シティの2つのオリンピックの公式テーマを作曲しています。