今日の音楽 10月31日 勝利のオーラス ;Music for today Oct.31 Horace victorieux
勝利のオーラスといっても、麻雀の最後の局で勝った曲ではありません(笑)
オネゲルの交響的黙劇「勝利のオーラス」は1921年10月31日にアンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団の演奏でローザンヌで初演されました。
デュトワ指揮 モントリオール・シンフォニエッタ: ストラヴィンスキー:バレエ《ミューズの神を率いるアポロ》、協奏曲《ダンバートン・オークス》、協奏的舞曲、《バーゼル協奏曲》
カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団: グリーグ:《ペール・ギュント》第1組曲&第2組曲/シベリウス:交響詩《フィンランディア》 他 (SHM-CD)
ロストロポーヴィチ(vc)小澤征爾指揮ロンドン交響楽団: ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番/プロコフィエフ:交響的協奏曲
アルゲリッチ(p)シャイー指揮ベルリン放送交響楽団: チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番/ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番 (SHM-CD)
ブルガーゴーズマン(S)ウェルザー=メスト指揮クリーヴランド管弦楽団: ワーグナー:管弦楽曲集、ヴェーゼンドンクの5つの詩
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勝利のオーラスといっても、麻雀の最後の局で勝った曲ではありません(笑)
オネゲルの交響的黙劇「勝利のオーラス」は1921年10月31日にアンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団の演奏でローザンヌで初演されました。
ムソルグスキーのカルスの奪還は1880年10月30日にナープラヴニークの指揮で初演されました。
原曲はオペラ・バレエ「ムラダ」のために作曲した「公と僧侶たちの後進」。「ムラダ」はボロディン、キュイなどの合作として企画され、ムソルグスキーは第2幕と第3幕の音楽を割り当てられましたが、作曲途中で計画が中止となってお蔵入り。
メンデルスゾーンの弦楽四重奏曲第4番ホ短調op.44-2は1837年10月29日にライプツィヒで初演されました。
ショスタコーヴィチの歌曲集「アレクサンドル・ブロークの詩による7つの歌曲」op.127は1967年10月28日にヴィシネフスカヤのソプラノ独唱、オイストラフのヴァイオリン、ロストロポーヴィチのチェロ、リヒテルのピアノという豪華メンバーの演奏でモスクワで初演されました。
この曲はチェリストのロストロポーヴィチとその夫人でありソプラノ歌手のヴィシネフスカヤのために作曲されたものです。
ブロークはロシア象徴主義を代表する詩人で、オフィーリアの歌、予言の鳥ガマユーン、私たちは一緒だった、街は眠っている、嵐、秘密のしるし、音楽という7つの曲からなる組曲です。
作家半村良は1933年10月27日に東京都葛飾区で生まれました。
高校卒業後様々な職業を転々としながら1962年に作家としてデビューし奇想天外な作品を発表してきました。
その中でも最も一般に知られた作品が「戦国自衛隊」です。架空戦記ものの元祖的な作品で、上杉、武田の戦う戦国時代にタイムスリップした自衛隊が上杉謙信と組んで天下統一を目指すが、現代の物資が底をついてしまい(戦車や機関銃があっても弾薬が無く、やがてガソリンも尽きて)殺されていくが・・・
という物語。角川映画として映画化されました。主題歌は松村とおるが歌っていました。
マルティヌーの交響曲第2番H.295は1943年10月26日にラインスドルフ指揮クリーヴランド管弦楽団の演奏で初演されました。
マルティヌーがナチスのヨーロッパ侵攻を避けてアメリカに渡った時代の作品。チェコスロヴァキア共和国独立25周年にあたるこの日に初演されました。編成は大きいもののオーケストラは小グループに分割され、それぞれが交互に現れる室内楽的な音楽です
歌手ヘレン・レディは1941年10月25日にメルボルンで生まれました。
70年代ポップスの女王と呼ばれビルボードのトップ40へ15曲のシングルを送り出しました。アメリカでのデビューは1971年の「私はイエスがわからない」。1972年の「私は女」は彼女の強く美しい女性というイメージを定着させた曲で全米1位に輝きました。
その後「ピースフル」「デルタの夜明け」「ひとりぼっちの悲しみ」「歌のある限り」「アンジー・ベイビー」などのヒットを重ねました。
「デルタの夜明け」は1973年に「私は女」に次いで全米1位になり、アダルトコンテンポラリー・チャートで初の1位になった曲です。それ以降6曲連続アダルトコンテポラリー・チャートの1位に輝いています。
「デルタの夜明け」は1971年にイギリスのアレックス・ハーヴェイがリリースした曲をカバーしたもの。タニヤ・タッカーなど多くのカバーバージョンがあります。曲の内容は強い女とは違って、若い男に騙されて41歳にもなって男を待ち続ける哀れな女性を歌った曲。デルタ・ドーンはその女性のニックネームらしいです。
モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第4番ニ長調「シュトラスブルガー」K.218は1775年10月24日に作曲されました。
モーツァルトのヴァイオリン協奏曲は第7番までありますが、そのうち6番と7番はモーツァルトの作品ではないとされています。従って第5番までがモーツァルトのヴァイオリン協奏曲で、その5曲全てが1775年にザルツブルグで作曲されました。
第4番は管楽器がオーボエとホルンのみというシンプルな編成で3番と5番という比較的知られる曲に挟まれた明るい曲です。
エルガーの3つのバイエルン舞曲op.27は1897年10月23日に初演されました。
エルガーは1894年に一家でオーバーバイエルンでの休暇を過ごし、その思い出に6曲からなる「バイエルンの高地からの情景」という合唱曲集を作曲しました。歌詞はエルガーの妻のキャロライン・アリス・エルガーがつけました。
この中から3曲を選んで、管弦楽作品に編曲したものが「3つのバイエルン舞曲」です。
3曲は、原曲の1曲目 The Dance(Sonnenbichl)、第2曲 Lullaby(In Hammersbach)、第3曲 The Marksmen(Bei Mumau)です。
シンガー・ソングライターで、ゴダイゴのボーカリスト タケカワユキヒデは1952年10月22日に埼玉県浦和市(現さいたま市)で生まれました。
母方の曽祖父が鈴木バイオリンの創業者鈴木政吉、大叔父がスズキ・メソードの鈴木鎮一、父親は音楽評論家の武川寛海という音楽一家に生まれました。幼少からヴァイオリンを学び作曲もするようになりました。
1975年にソロ歌手としてデビューし翌年にゴダイゴを結成して「ガンダーラ」「銀河鉄道999」「ビューティフル・ネーム」など数々のヒットを残しました。
ドヴォルザークのテ・デウムop.103は1892年10月21日にドヴォルザークの指揮でニューヨークで初演されました。
テ・デウムはドヴォルザークがアメリカに渡っていた時期に作曲された音楽のひとつです。ニューヨークナショナル音楽院からの招きで1892年9月27日にニューヨークに到達したドヴォルザークは1895年4月16日までの2年半のアメリカ在住中に、交響曲第9番「新世界より」、弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」、弦楽五重奏曲第3番、ユーモレスク、チェロ協奏曲などの代表作を作曲しています。
そのアメリカでの作品の第1弾がテ・デウムでした。元々コロンブスのアメリカ大陸発見400年祭で演奏するように「アメリカの旗」という第二次米英戦争を題材にした合唱曲を依頼されましたが、テキストの到着が遅れたために代わりに作曲されたのが「テ・デウム」でした。
「テ・デウム」はキリスト教のカトリック教会・ルーテル教会・正教会の聖歌のひとつで、冒頭の一文に"Te deum laudamus"(われら神であるあなたを讃えん)からこの名称で呼ばれています。シャルパンティエ、ベルリオーズ、ブルックナーなどが作曲しています。
バックスの交響詩「ティンタジェル」は1921年10月20日にゴドフリー指揮ボーンマス交響楽団の演奏で初演されました。
歌手のジョージ・マックレーは1944年10月19日にフロリダのウェスト・パーム・ビーチで生まれました。
子供時代から聖歌隊のゴスペル、高校のグリークラブ、家族のユニットで音楽活動をして海軍除隊後夫婦のデュエットをデビューしましたがヒットせず、その後は妻グエンのソロ活動が軌道に乗ってきたためバックアップをしていました。
ある時ちょっとしたトラブル(妻の遅刻)が元でグエンに提供された曲をジョージが代わりにレコーディングをして生まれた曲が「ロック・ユア・ベイビー」でビルボードの1位になった他、イギリス、西ドイツ、イタリアなど11カ国で1位という大ヒットになりました。
ブラームスの弦楽四重奏曲第2番イ短調op.51-2は1873年10月18日に初演されました。
ブラームスにはベートーヴェンの呪縛というのがあって、ベートーヴェンの得意分野の作曲は非常に慎重であったというのは前に弦楽四重奏曲第1番のときにも書きましたが、とにかく交響曲、弦楽四重奏曲、ピアノソナタというベートーヴェンの評価の高い分野は作品数も非常に少ないわけです。
ピアノ四重奏曲や弦楽六重奏曲などで素晴らしい作品を残したにもかかわらず弦楽四重奏曲は僅か3曲しか作曲しませんでした。
この2番の弦楽四重奏曲は外科医でありアマチュア音楽家だったテオドール・ビルロートに捧げられています。作曲に際してはヴァイオリンの名手ヨアヒムからの助言を多く受けており初演はヨアヒムが率いる四重奏団によって行われました。
とても柔和で叙情的な曲で、第1番とは対照的な曲です。第1楽章の第1主題のF-A-Eという音列はヨアヒムのモットー Frei Aber Einsam (自由、しかし孤独)にちなんでいるといわれています。
ロドリーゴの田園風協奏曲は1978年10月17日にゴールウェイのフルート独奏、マータ指揮フィルハーモニア管弦楽団の演奏でロンドンで初演されました。
田園風協奏曲(パストラル協奏曲)はフルート奏者ジェームズ・ゴールウェイの委嘱で作曲されたフルート協奏曲です。
ツィーラーのシェーンフェルト行進曲op.422は1890年10月16日に初演されました。
カーペンターズのリーダーで、作詞作曲家及びアレンジャーのリチャード・カーペンターは1946年10月15日にコネチカット州ニュー・ヘイブンで生まれました。
レコード収集家だった父親の影響で子供のころから音楽に興味を抱きピアノを学びました。カリフォルニア州立大学ロングビーチ校に入学しコーラス隊に入って後に作詞家となるジョン・ベティスと出会い、妹のカレンをくわえたトリオを結成してA&Mと契約。
ファーストアルバムの「オファリング(後に涙の乗車券に改題)は全く売れませんでしたが、シングル「遥かなる影」が大ヒットして一躍スターダムへ。リチャードは初期はヴォーカルも担当する事がありましたが、カレンの歌への評価が高くなったため自身はバック・コーラスとキーボードを担当する事になりました。
当初のヒット曲は、全て他の人(バカラック、ポール・ウィリアムズ、レオン・ラッセル等)、次第に自分の作曲した曲も多くなっていきました。リチャードの音楽の才能はとりわけアレンジが評価され、そのアレンジ能力がゆえに、カバー曲もあたかもカーペンターズのオリジナル曲のような雰囲気を持っています。
自作曲で最もヒットしたのが「トップ・オブ・ザ・ワールド」です。1972年6月発売の4枚目のアルバム「ア・ソング・フォー・ユー」に収録された曲で、当初は11月に日本でのみシングル・カットされて発売されました。アメリカではシングル化の予定はありませんでしたが、リン・アンダーソンがカバーしたシングルがヒットしたため、アレンジをし直して再録音をして1973年9月に発売、日本でもこのリミックス・バージョンが再発売されたという数奇な経緯をもつ曲です。当初シングル化されなかった「トップ・オブ・ザ・ワールド」が「遥かなる影」と並ぶ全米1位のヒット曲になったわけです。
この曲がリチャードとベティスの共作による最大のヒット曲です。
電子楽器オンド・マルトノの製作者モーリス・マルトノは1898年10月14日にパリで生まれました。
幼少より音楽を学んだマルトノは、特に音楽教育に興味を持ち新たな音楽教育を開発するとともに科学の発展を音楽に応用する事で新しい音楽世界を拓く研究をして発明したのが電子楽器のオンド・マルトノです。
様々な音楽表現や多彩な音色の合成を可能とした楽器で近代音楽、特にフランスでは多くの作曲家がこの楽器を取り上げました。鍵盤とリボンの2種類の奏法が可能でしたが単音しか出せなかったのが欠点ではありました。
この楽器を使った曲はジョリヴェの「オンド・マルトノ協奏曲」、オネゲルの「火刑台上のジャンヌ・ダルク」などが知られていますが、特に演奏頻度が高い曲がメシアンのトゥーランガリラ交響曲です。メシアンはこの楽器の特徴を熟知して非常に効果的な使い方をしています。
アメリカのポップ・デュオ、イングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリーのジョン・フォード・コーリーは1948年10月13日にダラスで生まれました。
イングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリーはロギンス&メッシーナ、シールズ&クロフツ、ヴィグラス&オズボーンなど、ポップス・デュオが流行した1970年代前半の活躍したデュオで、イングランド・ダン(本名ダン・シールズ)は、シールズ&クロフツのジミー・シールズの実弟。70年代初めにデビューしましたが暫くはヒットに恵まれず。その後「秋風の恋」「愛の旅立ち」などのヒットを連発するようになりました。
「シーモンの涙」は何故か日本でのみヒットした曲。ポップな感じの曲で「シーモン、何故泣くの・・・」という出だしの爽やかな曲です。
ヨハン・シュトラウス二世のワルツ「メフィスト地獄の叫び」op.101は1851年10月12日に初演されました。
バーンスタインの政治的序曲「スラヴァ!」は1977年10月11日にロストロポーヴィチ指揮ワシントン・ナショナル交響楽団の演奏で初演されました。
友人のロストロポーヴィチがワシントン・ナショナル交響楽団の音楽監督に就任したことを祝って作曲された曲。政治的序曲という何やら厳しいタイトルではありますが、内容自体はユーモラスで陽気な曲です。
自身のミュージカル作品などから主題を取っていて、管弦楽版では録音テープが使われており、そのテープの中身が政治的な演説なので、こういうタイトルになっています。「スラヴァ」はロシア語の歓呼の言葉で、この演説を聞いた民衆が歓呼の声をあげるという内容です。
ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第1番ハ長調op.49は、1938年10月10日にグラズノフ四重奏団の演奏でレニングラードで初演されました。
ニールセンの木管五重奏曲op.43は1922年10月9日にコペンハーゲン管楽五重奏団の演奏で初演されました。
ブルックナーの男声合唱のための「ヘルゴラント」は1893年10月8日にクレムザー指揮ウィーン男声合唱協会とウィーン・フィルの演奏で初演されました。
歌手松原みきは2004年10月7日に子宮頸癌で44歳で亡くなりました。
1959年に大阪の岸和田で生まれた松原みきは母がジャズシンガーという事もあって幼少のころからジャズに親しみ、その後ロックにも興味を持って中学校時代からバンド活動を始めました。
1977年高校3年の時に歌手デビューのため上京し、1979年に「真夜中のドア~Stay With Me」でデビューし数々の新人賞を受賞しました。その後「愛はエネルギー」「ニートな午後3時」などのヒットを飛ばし1990年代になると歌手活動を休止し結婚。その後は作曲家としてCMソングやアニメソングを中心に活動しましたが2001年に癌を告知されすべての音楽活動を休止し闘病していましたが、亡くなってしまいました。
私に松原みきの存在を教えてくれたのは会社の同期入社の仲間で1980年の初のアルバム「Pocket Park」を買いました。
リヒャルト・シュトラウスの家庭交響曲余録op.73は、1925年10月6日にヴィットゲンシュタインのピアノ、ブッシュ指揮シュターツカペレ・ドレスデンの演奏で初演されました。
家庭交響曲の作曲から20余年経て作曲されたもので、ラヴェルの左手のためのピアノ協奏曲やプロコフィエフのピアノ協奏曲第4番と同じく第一次大戦で右手を失ったウィドゲンシュタインの委嘱によるものです。
単一の楽章で作曲されていて、腸チフスで重体となったリヒャルト・シュトラウスの息子フランツをめぐる体験がテーマになっており家庭交響曲のこどもの主題が引用されています。
映画監督舛田利雄は1957年10月5日に神戸で生まれました。
新東宝、日活を経て1968年にフリーの映画監督として活動を開始し、1970年に20世紀フォックスの日米合作映画「トラ・トラ・トラ」を深作欣二との共同監督で成功に導いた後は、日本の映画界のヒットメーカーとして活躍するようになりました。
何といっても舛田利雄といえば「宇宙戦艦ヤマト」を忘れてはいけません。テレビアニメでは監修として加わっていましたが劇場版では監督として、テレビで不振だった「宇宙戦艦ヤマト」を日本を代表する劇場版アニメ作品のひとつに導き、シリーズ最後まで脚本や監修など何らかの形で係わりを持ちました。
その間も様々なジャンルの映画を監督しています。「二百三高地」は日露戦争の最大の激戦を描いた作品で仲代達也が乃木将典を演じたヒット作。日本アカデミー賞では「遥かなる山の呼び声」の高倉健と倍賞千恵子に奪われた主演男女優賞以外の主要10部門を受賞しています。主題歌は、さだまさしの「防人の歌」です。
團伊久磨の交響曲第6番「HIROSHIMA」は1985年10月4日に團自身の指揮による広島交響楽団、赤尾三千子の笛、曽我栄子のソプラノ独唱によって初演されました。
團伊久磨の完成した最期の交響曲で、第5番「駿河」から20年の間を空けた交響曲です。広島青年会議所平和問題委員会からの依頼で作曲され、「平和コンサート2001」での初演でした。
3楽章構成で50分前後の曲、第3楽章にはソプラノ独唱が入ります。テキストはイギリスの詩人ブランデンが1949年に書いた"HIROSHIMA, A SONG"。特殊楽器として能管と篠笛が入ります。
この詩は1948年にブランデンが広島を訪れた際に明日をめざして復興していく広島の様子に感動して書かれたもので、平和の森に詩碑が造られています。
モーツァルトの交響曲第24番変ロ長調K.182(173dA)は1773年10月3日に完成しました。
ヨハン・シュトラウスのワルツ「山の上から」op.292は1864年10月2日にパヴロフスクで初演されました。
ショスタコーヴィチのヴィオラ・ソナタop.147は1975年10月1日にドルジーニンのヴィオラ、ムインチャンのピアノによってレニングラードで初演されました。