今日の音楽 8月31日 わが谷は緑なりき ;Music for today Aug.31 How Green Was My Valley
映画監督ジョン・フォードは1973年8月31日に胃癌で亡くなりました。
デュトワ指揮 モントリオール・シンフォニエッタ: ストラヴィンスキー:バレエ《ミューズの神を率いるアポロ》、協奏曲《ダンバートン・オークス》、協奏的舞曲、《バーゼル協奏曲》
カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団: グリーグ:《ペール・ギュント》第1組曲&第2組曲/シベリウス:交響詩《フィンランディア》 他 (SHM-CD)
ロストロポーヴィチ(vc)小澤征爾指揮ロンドン交響楽団: ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番/プロコフィエフ:交響的協奏曲
アルゲリッチ(p)シャイー指揮ベルリン放送交響楽団: チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番/ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番 (SHM-CD)
ブルガーゴーズマン(S)ウェルザー=メスト指揮クリーヴランド管弦楽団: ワーグナー:管弦楽曲集、ヴェーゼンドンクの5つの詩
アルゲリッチ(p)アバド指揮ロンドン交響楽団: ショパン: ピアノ協奏曲第1番/リスト: ピアノ協奏曲第1番 (生産限定盤)(UHQCD)(特典:なし)
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映画監督ジョン・フォードは1973年8月31日に胃癌で亡くなりました。
ヨーゼフ・シュトラウスのワルツ「調子のいい男」op.62は1858年8月30日に初演されました。
兄のヨハンに比べてユーモアやウィットに富んだ曲を多く作曲したヨーゼフらしい作品。舞踏会に登場する上流階級の紳士の中には、口ばっかりの調子のいいヤツも結構いたんでしょうね。
そういう輩を皮肉った作品なんですかね。あまり詳しい事わからなくてすみません。
歌手マイケル・ジャクソンは1958年8月29日にインディアナ州ゲーリーで生まれました。
1960年代後半から家族による「ジャクソン5」の一員として活動して1971年にはソロ歌手としてデビューしたマイケル・ジャクソン。ジャクソン5は、モータウンレコードからエピックソニーに移籍した時にバンド名をジャクソンズに変更して活動。
1979年にはクインシー・ジョーンズをプロデューサーに迎え、それから大ブレークとなったわけです。
私が初めてマイケル・ジャクソンを聞いたのが映画「ベン」の主題歌であるベンのテーマ。わずか14歳できちんとしたバラードが歌える子供にびっくりしました。
映画監督のジョン・ヒューストンは1987年8月28日に亡くなりました。
父親が俳優のウォルター・ヒューストンという俳優一家に生まれたジョン・ヒューストンは、各地を放浪後ハリウッドで脚本の仕事で実績を積んだ後、1941年に「マルタの鷹」で映画監督デビューをして、1948年に「黄金」でアカデミー監督賞を受賞しました。
俳優としても「枢機卿」ではアカデミー助演男優賞にノミネートされ、自ら監督した「天地創造」ではノアを演じました。
監督作品としては「赤い風車」「許されざる者」「荒馬と女」「007カジノロワイヤル」「ロイ・ビーン」など数多くを手がけ、1987年に81歳で天寿を全うしています。
「アニー」はブロードウェイ・ミュージカルを1982年に映画化したもので、孤児アニーが大富豪の養女になるまでを描いた作品。アニーは孤児院の院長のいじめにも耐え、明るさや希望を失わない赤毛の女の子。映画ではアイリ・クインが演じています。そのアニーが歌う主題歌が「トゥモロウ」です。今がどんなに苦しくても明日を信じるという内容の歌で、映画の中では当時の大統領フランクリン・ルーズベルトを励ます場面でも歌っていました。
ブリテンの若きアポロop.16は1939年8月27日に初演されました。
ブリテンがアメリカ旅行中に作曲したもので、ピアノと弦楽合奏のためにカナダ放送協会の委嘱によっています。キーツの未完の詩「ハイベリオン」から取られたアポロの黄金の巻き毛と神々しい手足を描いたものです。
ピアノの半音の上昇下降、グリッサンドが華々しく使われていて内面より演奏効果を重視した作品です。
歌手ローラ・ブラニガンは2004年8月26日に脳動脈瘤で47歳の若さで亡くなりました。
CHAGE & ASKAは、1979年8月25日に「ひとり咲き」でレコード・デビューを果たしました。
CHAGE と ASKAは高校からの同級生で、大学在学中に別々に出場していたヤマハの第15回ポピュラーソングコンテストの福岡大会でCHAGEがグランプリを獲得し九州大会に進む際に、ヤマハのディレクターの勧めによってデュオが組まれました。その後7人編成のバンドとして活動を始めましたが、第16回ポプコンの直前にデュオに戻り「流恋情歌」が本選に出場する事になりました。
1979年の第17回ポプコンで再度本選に出場しまし入賞に留まりましたがデビュー話は進んで、ポプコン出場曲の「ひとり咲き」でデビューを果たしています。
フランツ・リストのピアノ曲灰色の雲S.199は1881年8月24日に作曲されました。
「灰色の雲」はリストの晩年の作品です。晩年のリストの作風は実験的な内容を伴っていて、この曲にも4度ならびに増4度の和声進行で調性感に乏しい曲になっています。また最後の部分ではスクリャービンが用いた神秘和音と同じ和音が使われいて、リストの先進性を垣間見る事ができます。
作詞家・脚本家のオスカー・ハマースタイン二世は1960年8月23日に亡くなりました。
祖父がオペラの興業主、父親が劇場主という家に生まれ、作曲家のジェローム・カーン、リチャード・ロジャース等とともに多くのミュージカルの脚本や作詞を手がけました。当時歌と個人芸の組み立てによる娯楽ショーだったブロードウェイ・ミュージカルに物語性を組み込んで、現在のプロードウェイ・ミュージカルの礎を築きました。
「南太平洋」は、ジェームズ・ミッチナーの小説「南太平洋物語」を原作とした1949年に公開されたミュージカルで1958年に映画化されました。太平洋戦争の真っ最中に南太平洋のある島に赴任してきたケーブル中尉と島のみやげ物屋の娘リアット、対日作戦に協力する農園主ベックと島の海軍の看護師フォーブッシュの恋を描いた作品。「魅惑の宵」「バリハイ」「ハッピートーク」など珠玉のナンバーに彩られた作品です。
作曲家ドビュッシーは1862年8月22日に生まれています。
印象派の音楽世界を確立し、フランス音楽の重鎮となっていたドビュッシー。
ちょうど前奏曲と並行して書かれた小品の中に「レントよりおそく」があります。テンポの遅いワルツとして作曲されたもので、小品といっても高い完成度の曲です。
モーグ・シンセイサイザーの開発者ロバート・モーグは2005年8月21日に脳腫瘍で亡くなりました。
ロバート・モーグはアメリカの電子工学の博士で、彼の作り出したモーグ・シンセサイザーはまだデジタル音が開発される前のアナログ・シンセサイザーです。シンセサイザーの登場は音楽界に大きな変革をもたらしました。クラシック音楽の世界でもテルミンやオンド・マルトノなど従来の音色と異なる作曲者の好みの音色を実現するための楽器の変革が図られていましたが、このシンセサイザーはポピュラー音楽の世界で広く受け入れられるようになりました。特にミニ・モーグという量産型の小型のシンセサイザーが1970年に開発されてから急速に普及していきました。当時はまだモノフォニーで和音を演奏する事はできませんでしたが、多重録音などで複雑な和音を表現するなど普及していきました。
シンセサーザーを世に知らしめたのはウェンディ・カルロスのスイッチト・オン・バッハで、それを聴いたキース・エマーソンが自らのステージに使用し「展覧会の絵」「ナット・ロッカー」を産みだしました。日本では冨田勲が多重録音を駆使し「月の光」を発売しています。デジタル音楽の時代になって、モーグ・シンセサイザーは過去のものになってはいますが、新しい音楽を拓いた価値は大きかったと思います。
ルトスワフスキのピアノ協奏曲は1988年8月20日にツィマーマンのピアノでザルツブルク音楽祭で初演されました。
ルトスワフスキは生涯を通じて新古典主義、民族主義、前衛など様々なスタイルを見せてくれる作曲家で、このピアノ協奏曲は「偶然性」の要素や調性のある音、オリジナルの「チェーン形式」を盛り込むなど意欲作となっています。
4つの楽章からなる作品で、第1楽章導入部にはアド・リビトゥムの指示がある偶然性の技法が一部とられていますが、その後はスコアに音高、リズム、拍子などが細かく指示されて即興を廃しています。終楽章にはチェーン形式が使われています。
バレエの振付師、芸術プロデューサーのディアギレフは1929年8月19日に糖尿病が悪化して亡くなりました。
ディアギレフは大学時代に学業そっちのけで声楽や作曲を学びましたが、作曲の師であるリムスキー=コルサコフに作曲家としての才能が無い事を指摘され、別の道へと進みます。
マリインスキー劇場で興業の仕事についていましたが、最大の後援者であったヴラジミール大公が亡くなると、ディアギレフをよく思わない者たちによって干されてしまい、自らバレリーナやスタッフを集めて臨時のバレエ興業をパリ・シャトレ座で行い、大成功。これが事実上のバレエ・リュスの立ち上げとなりました。
バレエ・リュスは次々と新しいバレエを取り入れ、また当時の有名作曲家にバレエ音楽を委嘱し、バレエを総合芸術にまで高めていきました。
リュスに委嘱されたバレエ作品は数多く、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」「プルチネルラ」、ドビュッシーの「遊戯」、サティ「パラード」、プーランク「牝鹿」など19世紀後半から20世紀にかけて作曲され現在も人気の高い曲は、ほとんどがバレエ・リュスが初演しています。
プロコフィエフの「鋼鉄の歩み」「道化師」もリュスのために作曲されたもので「道化師」は、正式な題名が「7二人の道化師をだました道化師の物語」というもの。アファナーシェフの民話集からとられた6幕のバレエで、後に12の楽章からなる交響組曲に編曲しています。この中から5~8曲程度を抜粋して演奏する事が前提になっています。
ディアギレフの成功は、勿論類稀なプロデュース力と多岐にわたる人間関係にありますが、特にダンサーのニジンスキーを得た事と、美術や構成にピカソなどの有名芸術家を起用した事にあります。
作詞家 林春生は1937年8月18日に島根県大田市で生まれました。
林は大学卒業後フジテレビに入社し「ザ・ヒットパレード」「ミュージックフェア」といった音楽番組などの制作を手がけ、そのかたわら作詞活動を行いました。番組制作時は本名の林良三を使っていました。林は57歳で亡くなっていますが、その間に多くのヒット曲を作詞しています。
欧陽菲菲「雨の御堂筋」、キャンディーズ「ハート泥棒」、チェリッシュ「ひまわりの小径」「白いギター」、「恋の風車」、渚ゆう子の「京都の恋」「京都慕情」などが林の作品です。
特に「京都の恋」「京都慕情」はベンチャーズが"KYOTO DOLL-アメリカではEXPO'70"というタイトルで作曲したインストロメンタル曲で、それに林が詞をつけて渚ゆう子が歌ってオリコンで8週連続1位の大ヒットとなった曲です。
ワーグナーの楽劇「神々の黄昏」は1876年8月17日にバイロイト祝祭歌劇場で初演されました。
「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」と続く「ニーベルンクの指環」の最後を飾る作品。4時間20分程度の長大な作品で、劇的な変化に富むものです。「夜明け-ジークフリートのラインへの旅」(序幕と第1幕の間奏曲)、「ジークフリートの葬送行進曲」(第3幕への間奏曲)など単独で演奏される曲も多いです。
「ブリュンヒルデの自己犠牲」は終幕の音楽、4作の最後に相応しいものでブリュンヒルデの愛の救済の音楽です。
アメリカのロック歌手エルヴィス・プレスリーは1977年8月16日に処方薬の誤用が原因で亡くなりました。
ヨゼフ・ランナーのバーデン舞曲(バーデンの巻きパン)op.64は1832年8月15日に初演されました。
ヨハン・シュトラウス一世とともにウィーナ・ワルツの初期の時代に活躍したランナーは、シュトラウスと競い合う事で作曲の腕を磨いてきた作曲家です。
チフスによって42歳の若さで亡くなってしまい、後を継いだ息子も20歳で死去してしまったため、シュトラウス一家のように音楽史に残る華やかな一族となることはありませんでしたが、堅実な作風で現在ではシュトラウス一世よりも演奏される作品数が多いといわれています。
バーデン舞曲は別名バーデンの巻きパンというタイトル、非常に優雅な曲です。
ポップ・デュオ シールズ&クロフツのダレル・ダッシュ・クロフツは1940年8月14日にテキサスのシスコで生まれました。
作曲家ジジュール・マスネは1912年8月13日に亡くなっています。
マスネは「タイス」「ウェルテル」「ル・シッド」など数々のオペラ作品と「アルザスの風景」「絵のような風景」など7曲の管弦楽組曲で知られています。
歌曲やチェロなどの独奏曲として単独で演奏されるエレジーは、元々はピアノ独奏用の「風俗的小品」op.10の5曲目メロディとして作曲されました。それを歌劇「復讐の女神たち」の音楽に転用され、後に歌詞が付けられて歌曲「「エレジー」として歌われるようになったわけですから、マスネお気に入りのメロディだったのでしょうね。
作曲家ハインリヒ・イグナツ・フランツ・フォン・ビーバーは1644年8月12日に北ボヘミアで生まれました。
1668年から2年間チェコのクロムニェジーシュ城でヴァイオリニストを務めた後、ザルツブルクの宮廷楽団のヴァイオリニストになり後に宮廷楽長になりました。
代表作のロザリオのソナタは全16曲からなるヴァイオリン曲で、聖母マリアの15の秘蹟を題材にしたものです。5曲ずつの3つの部分にわかれている15曲と終曲のパッサカリアからなる曲です。
「キリストの誕生」(喜びの秘蹟)
第1番 お告げ
第2番 訪問
第3番 降誕
第4番 キリストの神殿への拝謁
第5番 神殿における12歳のイエス
「受難」(哀しみの秘蹟)
第6曲 オリーヴ山での苦しみ
第7曲 むち打ち
第8曲 いばらの冠
第9曲 十字架を背負うイエス
第10曲 イエスの磔と死
「復活」(栄光の秘蹟)
第11曲 復活
第12曲 昇天
第13曲 聖霊降臨
第14曲 聖母マリアの被昇天
第15曲 聖母マリアの戴冠
終曲 パッサカリア
です。ヴァイオリニストだったビーバーの手によるものという事もあって技巧的に優れた曲で、多くの曲が特殊な調弦(スコルダトゥーラ)で演奏されるため、1曲ずつ響きが微妙に異なっています。
アメリカのシンガー・ソングライター エリック・カルメンは1849年8月11日にクリーヴランドで生まれました。
エリック・カルメンは幼少から音楽の才能を表しバイオリンのレッスンを受けるかたわら作曲などもしていました。ビートルズとローリング・ストーンズの影響でロックに目覚めて高校時代にはバンド活動をしていましたが、大学時代に友人たちとラズベリーズを結成しメジャー・デビュー。「ゴー・オール・ザ・ウェイ」がビルボードヒットチャートの5位になる大ヒットになりました。1975年解散後はソロ活動をして、敬愛するラフマニノフのピアノ協奏曲第2番をベースにした「オール・バイ・マイセルフ」で全米第2位のヒットを獲得しました。
「明日を生きよう」はゴー・オール・ザ・ウェイに続くシングルで16位になった曲。
作曲家グラズノフは1865年8月10日にサンクトペテルブルクで生まれました。
グラズノフは、ロシア音楽界でロシア五人組の系譜のペテルブルク楽派とチャイコフスキーを代表とするモスクワ楽派の融和の道を歩んだ作曲家です。また作品自体も保守的であり、プロコフィエフなどの革新的な作曲家からは古い音楽と見られていたようで、そのあたりが中途半端感があって音楽史的にも微妙な立ち位置になってしまっているようです。
オペラ、交響曲、協奏曲からピアノ曲まで多くの作品を残しましたが、管弦楽の小品は非常に多く作曲されました。演奏会用ワルツと題されたオーケストラ曲を2曲作曲しています。
第1番は28歳の時の作品で、導入部と3部形式の主部とコーダから出来ています。主題旋律は瑞々しいもので、最後は華やかに締められています。NHK-FMのクラシック番組のエンディングにも使われた凛々とした曲です。
作曲家レオンカヴァッロは1919年8月9日にモンテカティーニで亡くなりました。
ナポリ音楽院を卒業後、自作のオペラ上演を目標に努力していましたが、なかなか果たせず、30歳代半ば過ぎの1892年の「道化師」がようやくミラノで上演されて大成功を収めました。
それ以降もオペラを書き続けましたが、現在上演されるのは「道化師」1曲のみです。
その他にも交響詩なども数曲作曲してはいますが、現在演奏されるのは歌曲の「マッティナータ(朝の歌)」のみ。マッティナータは、敬愛する人のために、その人のいる建物の窓の下で明け方に演奏される音楽という意味で、セレナーデの朝版というところでしょうか。世紀のテナー、エンリコ・カルーソーに献呈されていて、今でもテノールのレパートリーとして頻繁に歌われます。
プーランクのバレエ音楽「典型的動物」は1942年8月8日にパリ・オペラ座でデゾルミエールの指揮で初演されました。
作曲家カタラーニは1893年8月7日に亡くなっています。
イタリア ルッカの名門音楽家の家系に生まれたカタラーニは、19世紀後半のオペラ作曲家として活躍しました。バーリ音楽院、ミラノ音楽院で学び、当時通俗的なオペラが氾濫するイタリア音楽界に不満を抱き、ワーグナーに傾倒。「ワリー」「ローレライ」の2つの名作を残しましたが、39歳で急死してしまいました。
今では、ヴェルディやプッチーニの影に隠れてしまいましたが、その作品は真摯にオペラを追求した作品となっています。
「ローレライ」は、ライン川に残るローレライ伝説に基づくものです。中でもテノールのアリア「五月のある日に」はテノール歌手の定番のひとつにもなっている名曲です。
作曲家松村禎三は2007年8月6日に肺炎のため78歳で亡くなりました。
幼少のころから音楽に興味を持ってピアノを習い、作曲もしていましたが京都大学在学中に両親を失い、上京し池内友次郎や伊福部昭に師事し、芸大を受験しましたが結核のため受験に失敗し5年間闘病生活を強いられました。
退院後1955年に「序奏と協奏的アレグロ」がNHK毎日音楽コンクールの管弦楽部門で第1位になりデビュー。その後映画などの分野でも活躍しました。
モーツァルトのピアノ、クラリネットとヴィオラのための三重奏曲変ホ長調K.498「ケーゲルシュタット・トリオ」は1786年8月5日に作曲されました。
シンガー・ソングライターの沢田知可子は1863年8月4日に母親が里帰りした岩手県安代町で生まれました。出身地は埼玉県与野市です。
埼玉の交通安全協会勤務ののち、ライブハウスで歌い始め、デモテープを提出して1987年デビュー。
1990年の「会いたい」がロングヒットして130万枚を売上げ有線大賞のグランプリなどを獲得しました。
「会いたい」は4枚目のアルバム「I miss you」に収録された亡くなった恋人の在りし日を回想して会いたい気持ちが募っていくという内容の曲で作詞沢ちひろ、作曲財津和夫の曲。
モーツァルトのセレナーデ第9番ニ長調K.320は、1779年8月3日に完成しました。
モーツァルトは13曲のセレナーデを作曲しています。セレナーデは元々は恋人や女性を讃えるために演奏される曲でした。リュートやギターを爪弾きながら歌うというのが典型的な形でした。
バロック時代では野外で演奏される機会音楽になり、古典の時代になると複数楽章を伴う大規模な合奏曲で、当初は野外で演奏されるために木管楽器とヴィオラ、コントラバスという楽器編成が典型的なものでした。これは立って弾く事を前提としていたようです。
やがてモーツァルトの時代には複数楽章の大規模な曲になっていき、ロマン派の時代になると4楽章の交響曲より規模の小さい、あるいは限定された編成のものに変わっていきました。
モーツァルトのセレナーデは「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」のような比較的小規模な曲もありますが、この第9番は交響曲と同等の編成になっています。第6楽章でポストホルン(郵便馬車のホルン)が用いられた事から「ポストホルン」という愛称でも呼ばれます。
歌手の真璃子は1968年8月2日に福岡県大野城市で生まれました。
とってもマイナーな歌手ですみません。でもレコード大賞の新人賞とか歌謡大賞の放送音楽新人賞を受賞しているのですが。。。テレビドラマにもいくつか出ていたようです。
私も近所のレコード店のおばさんが親戚だかなんだかで、盛んに応援していたので知っていた程度ですが、火曜サスペンス劇場の主題歌として「あなたの海になりたい」で、思い出した歌手です。歌の実力は巧いですが、少々線が細かったかな。
作曲家 信時潔は1965年8月1日に心筋梗塞で77歳で亡くなりました。
信時は東京音楽学校でチェロを学んだ後、作曲部に移り指揮法と作曲法などを学びドイツに留学。帰国後は音楽学校の教授となりました。
「海ゆかば」の作曲で有名ですが、軍国主義に利用され、学徒出陣などに用いられた事を恥じて戦後派作品数が激減しました。
「沙羅」は日本を代表する歌曲のひとつで、後に木下保によって合唱に編曲されています。丹沢、あずまやの、北秋の、沙羅、鴉、行々子、占ふと、夢 の8曲からなる清水重道という詩人によるものです。