今日の音楽 12月31日 帰れソレントへ ;Music for today Dec.31
作曲家エルネスト・デ・クルティスは1937年12月31日に亡くなりました。
100曲以上の歌曲を作曲しましたが、最も有名な曲は「帰れソレント」。1902年にイタリアのナポリ県南端の海岸沿いの都市ソレントを訪れた際に時の首相ザナルデッリのために作曲したカンツォーネです。
特にイタリア出身のテノール歌手ルチアーノ・パヴァロッティは自身のコンサートで好んで取り上げ、アンコールで歌う事も多かった曲です。
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作曲家エルネスト・デ・クルティスは1937年12月31日に亡くなりました。
100曲以上の歌曲を作曲しましたが、最も有名な曲は「帰れソレント」。1902年にイタリアのナポリ県南端の海岸沿いの都市ソレントを訪れた際に時の首相ザナルデッリのために作曲したカンツォーネです。
特にイタリア出身のテノール歌手ルチアーノ・パヴァロッティは自身のコンサートで好んで取り上げ、アンコールで歌う事も多かった曲です。
モーツァルトの交響曲第14番イ長調K.114は、1771年12月30日に完成されました。
モーツァルト15歳の時の作品。ザルツブルク大司教の前で演奏するために作曲したもので編成は非常に小さいもの。フルートとホルンが第1、第3、第4楽章、オーボエが第2楽章に使われているだけです。
フルートとオーボエが同一楽章に登場しないのは、当時フルートとオーボエを同一奏者が持ち替えで演奏する事が多かった為だと思われます。
作曲家岡野貞一は1941年12月29日に63歳で亡くなりました。
岡野貞一は国文学者であり詩人でもある高野辰之とのコンビで数多くの童謡唱歌を作曲しています。「春が来た」「春の小川」「朧月夜」「紅葉」など今でも多くの人に歌われ続けている曲が多いですね。
その中でも、「故郷」は最も愛されている曲です。ふるさとを離れて長い年月が経っても、やはり子供の頃に慣れ親しんだ故郷や故郷に残る両親を思う気持ちが、あまりセンチメンタルではなく、しかし叙情的に歌われた名曲ですね。
ブラームスのピアノ三重奏曲第2番ハ長調op.87は、1882年12月29日にフランクフルトで、ヴァイオリン ヘールマン、チェロ ミュラー、ピアノ ブラームスの演奏で初演されました。
第1番のピアノ三重奏から30年近くを経て作曲されたピアノ三重奏曲です。大規模な第1番に比べて簡潔で円熟した音楽になっています。82年から83年にかけては交響曲第3番や弦楽五重奏曲第1番が作曲されています。これらの曲も同様に、非常に明晰で簡潔な音楽になっており、この頃がブラームスの円熟期と考える事ができるでしょう。
楽章構成も、ハ長調、イ短調、ハ短調、ハ長調で同主調と平行調という捻りのない調性になっています。
歌手加藤登紀子は1943年12月27日に旧満州のハルビンで生まれました。
東京大学を卒業後、アマチュア歌手を経て1966年にデビュー。2曲目の「赤い風船」でレコード対象の新人賞を受賞し、その後は「ひとり寝の子守歌」「知床旅情」「百万本のばら」など長きにわたって歌手活動をしています。
「赤い風船」は題名の印象とは異なった悲しい歌です。赤い風船を追いかけて行った男の子が車に轢かれて死んでしまい、赤い風船はそれでも何事も無かったように空を舞い続けるという歌。直接「死んだ」と歌うこの曲は、表現の不自由な時代の現代では受け入れられないかも・・・
シューベルトのピアノ三重奏曲第1番は1827年12月26日にシュバンツィヒ四重奏団員の演奏でウィーン楽友協会で初演されました。
シューベルトの作品の中には、作曲年代も明確ではないものが少なくありません。4曲作曲されたピアノ三重奏曲も同様で番号のないD28の変ロ長調のものが1812年、15歳のときの作品であることがわかっています。第2番は1827年の作曲ですが、第1番は第2番よりも後の1828年作曲という説もあるようです。初演も翌年の1月という説もあります。
初演は作曲直後に行われたようですが、その後自筆譜が紛失されてしまい出版されたのがシューベルトの死後でした。シューベルトらしい美しく伸びやかな作品です。
ヨハン・セバスチャン・バッハのマニフィカト ニ長調BWV.243は1723年12月25日に初版の変ホ長調での初演がされました。
マニフィカトは「わが心、主を崇め」という意味のキリスト教聖歌のひとつで、ルカによる福音書の聖母マリアの祈りをテキストにしています。
バッハは1728年から1731年にかけてニ長調に変えて書き直しをしました。現在はほとんどがこの改訂版で演奏されています。ティンパニやトランペットが活躍する華やかな曲です。
数多いクリスマス・ソングの中から今年選んだのが "I Heard The Bells On Christmas Day "です。
アメリカの詩人ロングフェローの1863年の詩"Christmas Bells"にジョン・カルキンが作曲したもの。色々なアーティストが歌っていますが、やっぱり私のとってはカーペンターズのクリスマス・ポートレートの最後の曲として歌われたものです。
ショスタコーヴィチのミケランジェロの詩による組曲op.145は1974年12月23日にネステレンコのバス独唱、シェンデロヴィチのピアノで初演さえました。
彫刻家として知られるミケランジェロですが、詩人としても活躍しました。ミケランジェロの11の詩をバスとピアノのための声楽曲として作曲したものが、ミケランジェロの詩による組曲です。
死の前年という最晩年の作曲で本来は交響曲第16番にするつもりだったと、息子のマキシムが語っています。
この曲はその後急ぎ管弦楽伴奏にも編曲しましたが初演を待たず他界しました。曲自体は、十二音技法的な作品でとっつき易いものではありませんね。
ダ・カーポの榊原広子は1950年12月22日に栃木県佐野市で生まれました。
家業のスーパーマーケットを継ぐために横浜で修行している時に出会った榊原まさとしとデュオを結成し1973年にデビュー。翌年の「結婚するって本当ですか」が大ヒットとなりメジャー歌手となりました。1980年に2人が結婚し、しばらくは広子は子育てのため活動を休止していましたが1983年に活動を再開。童謡やアニメなど幅広い音楽を取り上げるようになっています。
「野に咲く花のように」はテレビ「裸の大将放浪記」シリーズの主題歌として1983年にリリースしたもの。広子の優しく温かい声がとても活かされた曲です。
ロック・バンド スピッツのヴォーカリスト、ギタリストの草野マサムネは1967年12月21日に福岡で生まれました。
草野はグループの殆どの曲の作詞作曲をしています・・・が、結構似たような曲調が多いと言われます。ちょっとヴォーカルが単調な声質なので余計そう感じるかもしれません。
それぞれの曲はなかなか良い曲ですが、ロックバンドだった事もあって、すぐには売れませんでした。1987年結成からメジャーデビューまで4年かかり、「ロビンソン」がヒットするまでさらに4年かかりました。
「空も飛べるはず」は1994年にテレビドラマの主題歌として依頼されたものの採用されず、シングルは発売されましたが、オリコン28位どまり。1996年のテレビドラマ「白線流し」の主題歌として採用されたところ大ヒットして初のオリコンシングルになったという曲です。
チャイコフスキーの組曲第1番ニ短調op.43は、1879年12月20日にニコライ・ルービンシュタインの指揮でモスクワで初演されました。
序奏とフーガ、ディヴェルティメント、間奏曲、小行進曲、スケルツォ、ガヴォットの6曲からなる組曲です。真にロマン派作品という曲ですが、やっぱりバレエ音楽っぽいもので気楽に聞くことができる音楽です。
サン=サーンスのアルジェリア組曲は1880年12月19日にパリのシャトレ座でコロンヌの指揮によって初演されました。
サン=サーンスは各国を旅してまわっていましたが特に北アフリカに興味があったようで、ピアノ協奏曲第5番「エジプト風」や幻想曲「アフリカ」などの作品を残しています。このアルジェリア組曲もアルジェリアを旅した時の印象を作曲したものです。全4曲の組曲で「アルジェをめざして」「ムーア風狂詩曲」「夕べの幻想ブリダにて」「フランス軍隊行進曲」からなっています。第2曲は舞曲のメドレーの形をとっていて、アフリカ的な音楽ですが、それ以外は特にアフリカっぽい雰囲気は感じられませんね。
ハイドンの交響曲第70番ニ長調Hoib.Ⅰ-70は1779年12月18日に初演されました。
ハイドンの作品の多くは宮廷内での演奏を目的としたものである事もあって、初演の記録が殆ど残っていませんが、この第70番は数少ない初演の日にちが残されている曲です。エステルハージ公の新しいオペラハウス建設開始のために作曲されたものだそうです。
曲自体もハイドン研究家として知られるロビンス・ランドンがハイドンの最も興味深い交響曲のひとつと挙げているように、第2楽章はカノンが用いられ終楽章に三重フーガが用いられるなど力作となっています。
女優夏目雅子は1957年12月17日に東京都港区で生まれました。
夏目雅子はわずか27歳の若さで白血病で亡くなった事もあり伝説的な女優として数えられています。デビューは、日本テレビの「愛が見えますか」の盲目のヒロイン役。当時はまだ本名の小達雅子で出演しており、演技も下手糞でした。カネボウのキャンペンガールとなって「クッキーフェイス」のCMでブレイクし、その後は演技も磨きがかかり、「鬼龍院華子の生涯」では、凄みのある啖呵をきる演技も見せています。
「瀬戸内少年野球団」は、伊集院静との結婚の年の作品。作詞家の阿久悠の原作による作品。監督は篠田正浩、夏目はヒロインの学校の先生役。主題歌の「瀬戸内行進曲」はジャズのスタンダード「イン・ザ・ムード」に日本語の歌詞をつけたものでクリスタルキングが歌いました。
結局、この作品が夏目の遺作となりました。
ラフマニノフのピアノ・ソナタ第2番変ロ長調op.36は1913年12月16日にラフマニノフ自身のピアノで初演されました。
ラフマニノフが合唱交響曲「鐘」の作曲のためにイタリアに滞在中に娘が病で倒れたため、名医を求めてドレスデンへ言った際に着想されたものです。作曲はロシアに戻ってからで、音楽院時代の同級生で音楽教師・ピアニストのプレスマンに献呈されました。ラフマニノフの作品という事で手の大きな人でなくては弾きにくかったり技巧的に難しい曲ですが、ラフマニノフらしい大曲になっています。
ドヴォルザークの弦楽四重奏曲第11番ハ長調op.61は、1881年12月15日に初演される・・・はずでした。
ヘルメスベルガー四重奏団からの依頼で作曲しウィーンのリング劇場で初演されるはずでしたが劇場が壊滅的な火災に見舞われ延期されました。その後初演がいつだったかは不明のようです。内容的にはドヴォルザークっぽい民族色は薄く、古典的なものになっています。
31分34秒からが第11番です。
エルガーの「子供の魔法の杖」第1組曲は1907年12月14日にヘンリー・ウッドの指揮でロンドンのクイーンズ・ホールにて初演されました。
以前第2組曲は紹介しましたが、第1組曲は友人のオルガン奏者リー・ウィリアムズに捧げられたものです。
序曲、セレナード、メヌエット、太陽の踊り、妖精の笛吹き、まどろみの情景、妖精と巨人の7曲で、少年の頃に劇を上演するために作曲したものの曲想のスケッチから書き起こしたもので、とても可愛らしい作品です。
ラフマニノフの合唱交響曲「鐘」op.35は1913年12月13日にラフマニノフ自身の指揮、マリインスキー劇場管弦楽団・合唱団の演奏でベテルブルク貴族会館にて初演されました。
「モルグ街の怪事件」で知られるエドガー・アラン・ポーの詩をロシア語訳したものをテキストにして作曲した合唱つきの交響曲です。
ラフマニノフの音楽にとって少年時代にノブゴロドやモスクワで聴いた教会の鐘の音が重要な要素でした。その為に、人生の四季を鐘の音になぞらえたこの詩はとても魅力的だったようです。
ソプラノ、テノール、バリトンの独唱と合唱によるこの曲は通常の交響曲同様4つの楽章からなっており、それぞれの楽章が若い輝き、愛の喜び、激動、弔いを象徴しています。
12月は意外に雨の歌が多いですね。今年は11月から東京でも雪が降りましたが、普通は北国でもまだ本格的な雪のシーズンは年明けから、という事で12月は冷たい雨というイメージがあるからでしょう。
その中から今日は荒井由実の「12月の雨」を選びました。1974年にリリースされた4枚目のシングルです。バックコーラスには山下達郎や大貫妙子らが参加しています。
デュティーユの交響曲第2番「ル・ドゥーブル」は1959年12月11日にミュンシュ指揮ボストン交響楽団の演奏で初演されました。
この曲の最大の特徴は、大編成オーケストラと、小編成のオーケストラ(アンサンブル)を対峙させた事です。副題の「ル・ドゥーブル」は分身という意味で、片方のオーケストラがもう一方のオーケストラの反映となって分身を作るという事です。
鏡のような効果、音色のコントラスト、異なるリズム進行、異なる調の重なり、ステレオ効果など様々な効果を生んでいます。デュティーユはドビュッシー、ラヴェルから連なるフランス音楽ですが、メシアンやブーレーズが進めた前衛的な音楽には行かず、別の系譜として独自の世界を築いた作曲家なので、比較的聴きやすい曲ですが、このように実験的な要素が強い曲です。
ベルリオーズのオラトリオ「キリストの幼時」op.25は、1854年12月10日にパリで初演されました。
ベルリオーズの宗教曲は、「レクイエム」「テ・デウム」ともに異常なまでに大きな編成の大規模な曲ですが、このオラトリオ「キリストの幼時」は2管編成で作曲されています。但し規模はやはり大きく全3部を演奏するには1時間半以上を要します。
題材はマタイ伝第2章のヘロデ王による幼児虐殺と聖家族のエジプトへの逃避から取られています。当初第2部の第2曲「羊飼いたちの別れ」のみを過去に他の作曲家が作曲した古風なオラトリオの一部として発表したところ、ベルリオーズに批判的だった批評家たちも好評に作品を迎えました。後にベルリオーズが真実を発表しても評価は覆らず、これを発展されて作曲したのが「キリストの幼時」です。
フォーレの即興曲第1番変ホ長調op.25は1882年12月9日にサン=サーンスのピアノ独奏で初演されました。
フォーレの即興曲は全6曲ですが、1曲はハープのために作曲されたものをピアノ用に編曲したもので、番号で呼ばれるのは5曲です。5曲には直接の関連性はなく3番までと4番以降では時期的な隔たりがあり、スタイルも全く異なったものになっています。
第1番は三部形式で出版社のデュラン社の勧めで作曲されました。聴けば直ぐに気がつくと思いますが、ショパンの影響が非常に強い曲になっています。
芥川也寸志の交響曲第1番の4楽章版は1955年12月8日に上田仁指揮東京交響楽団の演奏で日比谷公会堂で初演されました。
交響曲第1番は、芥川作品の中で唯一の番号付き交響曲です。当初は3楽章形式のシンフォニアとして團伊久磨、黛敏郎と結成した作曲家グループ「三人の会」の第1回演奏会で発表するために作曲され1954年1月に初演されました。
翌年に短いスケルツォ楽章(第2楽章)が書き加えられ4楽章の交響曲として改訂されました。他の芥川作品に比べてリズムが際立ったものではありませんが、芥川が傾倒していたソ連の音楽(ショスタコーヴィチやプロコフィエフ)の影響の強い、力強い作品という事に変わりはありません。
サン=サーンスの交響詩「ファエトン」op.39は1873年12月7日にコロンヌの指揮で国民音楽協会の演奏会で初演されました。
ギリシャ神話に登場するヘーリオスとクリュメネーの息子ファエトンを題材とした交響詩です。3つある主題がそれぞれ「ファエトンの馬車の疾走」「ゼウスの声」「ゼウスの悲しみ」を表したものです。
ストラヴィンスキーの交響詩「うぐいすの歌(ナイチンゲールの歌)」は1919年12月6日にアンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団の演奏でジュネーブで初演されました。
アンデルセンの童話「小夜鳴き鳥と中国の皇帝」を基にストラヴィンスキーが作曲したオペラ「夜鳴き鶯」から再構成して作った交響詩です。その後、バレエ・リュスのために1幕のバレエにも改編しています。
交響詩は3部からなる2管編成の曲です。オペラ自体は書き始めから脱稿まで4年かかっており、その間に「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」が作曲され、ストラヴィンスキーの作風が大幅に変化したため、第1幕と第2幕以降ではまるで様式が異なってしまった作品として知られています。
リヒャルト・シュトラウスのヴァイオリン協奏曲ニ短調op.8は1882年12月5日に初演され、シュトラウスの幼少からのヴァイオリンの師であるベンノ・ヴァルターに献呈されました。
リヒャルト・シュトラウス17才頃の作品で、初めて手がけた協奏曲であり、唯一のヴァイオリン協奏曲です。聴いてみるとブラームスの影響が大きく感じられます。ピアノ協奏曲第2番と同じような雰囲気もありますが、ヴァイオリンの演奏技巧に精通していたシュトラウスらしく、技巧的な面もあります。リヒャルト・シュトラウスの作品だ!と思って聴くと、我々が通常耳にする交響詩や楽劇とは全く違う響きがしますが、とても魅力的な曲です。
ドヴォルザークの交響詩「英雄の歌」op.111 B.199は1898年12月4日にマーラーの指揮でウィーンで初演されました。
ドヴォルザークは交響詩を5曲作曲しています。その内の4曲がチェコの詩人エルベンの「花束」という詩集の中のバラードにインスピレーションを得て作曲されたものですが、この「英雄の歌」だけがストーリーを持たない交響詩です。残念ながらエルベンによる4作に比べて知名度も演奏頻度も低いのですが、曲自体はなかなかの秀作です。
ここで言っている英雄はドヴォルザーク自身を指すとも、ブラームスを指すとも言われていますがはっきりとはしていません。
ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第4番ニ長調op.83は、1953年12月3日にベートーヴェン四重奏団の演奏で初演されました。
ショスタコーヴィチがジダーノフ批判を受けて非常に苦しい時期に作曲した曲です。外面的にはオラトリオ「森の歌」などを作曲してスターリンへのヨイショをしながら、この曲では内面的なものを表現しているようです。その為にかなり重苦しい陰鬱な音楽になっています。
1949年に作曲していますが、批判のさなかであった事もあり、初演は「森の歌」や「革命詩人の詩による10の詩曲などによって名誉が回復された後の1953年に遅らせています。
ショスタコーヴィチのピアノ・ソナタ第1番op.12は1926年12月2日にショスタコーヴィチ自身のピアノで、レニングラード・フィル小ホールで初演されました。
ショスタコーヴィチが交響曲第1番を作曲した後新しい西欧の音楽に興味を示して作曲した曲。ウェーベルンの影響などもあり難解な音楽のため演奏機会は多くはありません。
ブラームスの弦楽四重奏曲第1番ハ短調op.51-1は1873年12月1日に初演されました。
ブラームスがベートーヴェンの重圧によって1つ目の交響曲を作曲するのに20年の歳月を要したというのは有名な話ですが、同じような事が弦楽四重奏にも言えます。室内楽はブラームスの最も得意とする分野であり、ピアノを交えた室内楽は早くから作曲していましたが、ベートーヴェンが16曲の作品を遺した弦楽四重奏は8年の歳月を要し、その間に20曲程度が書いては捨てられを繰り返していたようです。
ようやく書き上げたこの弦楽四重奏曲も交響曲第1番同様劇的で力強い作品です。弦楽六重奏などの他の室内楽があまりに有名なため、それらの影に隠れてしまって地味な印象は否めませんが、それでも後期ロマン派を代表する弦楽四重奏曲のひとつでしょう。
調性も交響曲第1番と同じハ短調ですが、交響曲がハ長調で終わるのに対し第4楽章もハ短調のままです。と言っても暗いという印象は受けません。